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【映画】王国(あるいはその家について)/草野なつか


タイトル:王国(あるいはその家について)2019年
監督:草野なつか

ドキュメンタリーでありフィクションであり、映画であり演劇のようでもある。声が主体でもあるのでラジオドラマのようにも聞こえる。いち場面が繰り返され、何度も同じ場面を観ているとループもののような錯覚を覚えてくるが、単純にメタやポストモダンと切り捨てるのとは違う感覚が芽生えてくる。言葉にしようとすればするほど、途端に本質から離れていってしまう。これは一体物語なのか?それとも何か別のものを描こうとしているのか?観ているこちらは不思議な立ち位置に立たされる。しかし物語とは関係のない稽古場の様な場所などで、何度も繰り返される会話劇が徐々に進展していくうちに、少しずつ異なる声色と表情から段々と突き刺さるものが生み出されてくる。
販売されていた脚本の冒頭に監督が託されたテーマが書き記されていた。

テーマは「身体」だった。すぐに浮かんだ内容は、役者が「役柄の身体・声」を獲得する瞬間についてだった。

王国(あるいはその家について) 高橋知由

脚本に書かれた内容を読むと、物語の中で三人の人物が抱える日常への猜疑心に起因する部分が盛り込まれているが、劇中では削られている所も多い。登校拒否と出社拒否が重なり「浮ついた雰囲気」が醸成されている事や、野土香が夫に隠れて事務仕事を探している場面はオミットされている。しかし、オミットされた分だけ三人の中にある日常の軋轢が、その裏で抱えた感情として前景化されてくる。城南中の話が何度も繰り返される時、声と表情の身体的変化も前景化されていく。その時、我々観客は物語を観ているのか、表情や声色の差分をかぎ取っているのかの境界線が曖昧になり、繰り返される不破と軋轢の意味合いが宙を彷徨いながらも、感情の温度だけが体に残り続けていく。ある場面では、緩い近況報告でありながら、進んでいくにつれて境界線の輪郭がくっきりと浮かぶ。一方で繰り返される事でその境界も溶け合い始まりと終わりが結びついていく。
劇中冒頭から調書の中で物語のアウトラインが引かれていて、始まりから終わりまでが示唆される。数日過ごすなかで、実際に繰り広げられた会話がその後に繰り返される。表情と声色で紡ぎ出される情景は、インサートされる龍ヶ崎のシーンで補完さる。フィクションとしての劇中劇は、警察署内と芦花公園の家でのシーンだけで、それ以外はすべて読み合わせの様な舞台劇でしかない。イギリスBFIで高評価だったのは、シェイクスピアと舞台演劇の国である事を鑑みると至極納得がいく。映画であって、舞台劇でもある本作がイギリスで評価を得たのは自然な成り行きだったと思う。
ミニマルで無駄を省いた表現と、執拗に繰り返される場面からシンプルな悲劇が、様々なフレームの角度から描かれる事で、役者の温度感が微細に変わり続ける。イマジネーションをフルで使い切る表現の面白さがこの映画の可能性の大きな要因だったと感じられる。映画を観て脚本を読む事で、さらに保管される作品だとも帰りの電車の中で強く思わされた。
タイトルの王国というのも、人はそれぞれうちに持つフィールドが存在している。それは友人であり、家族であり、かけがいのない存在との関わりあいでもある。言葉に出来ないコミュニケーションの狭間にある空気でもある。他人が立ち入る事の出来ない領域が重なる時、現実は何を優先されるべきなのだろう?過去に築いた城を守るべきなのか、今只中に築いている城を守るべきなのか。それはどちらの見方も独善に映る。社会と個人の持つ価値観のズレが、表面化した時、それぞれが持つ価値観のすれ違いは一体何なのかも考えさせられる。法的な、もしくは倫理的な正義や価値観とは別の人間が抱えた正しさへの狂気が渦巻いている。

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