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【映画】夜明けのすべて/三宅唱


タイトル:夜明けのすべて
監督:三宅唱

夜の闇の中で遠くに光る武蔵小杉のビル群。星のように輝く街と横切る浅草線。東京城南地区に当たる大田区の南側に住んでいる自分にとっては身近な場所と風景である。舞台となる栗田科学株式会社のある馬込辺りは、頻繁に訪れる場所ではないにしろ、知人が住んでいたり、郷土博物館を訪れるために足を運ぶ事がある。浅草線の車庫は、池上本門寺の端にある梅園のすぐそばにあり、国道1号線に沿うように走っている。しかも山添の家は馬込から数キロ離れた僕の家の近くにあり、日頃から頻繁に通る場所でびっくりした。馬込からあのアパートまで結構距離があるけど…なんて余計な事を思ってしまうのも、地元が映っているからこその密やかな楽しみでもあった。
とまあ、映画の物語とは関係のない部分で少し興奮してしまったが、三宅唱という監督の懐の深さを感じさせる作品だったと感じる。作品のテイストとしては「君の鳥は歌える」のどん詰まりとモラトリアム感(原作はよりシビアな状況が描かれる)溢れる描き方の方が、監督の本来の姿のように感じられる。しかし、前作「ケイコ目を澄ませて」での安直な成功に結びつかせないリアルな人物描写から、さらに一歩踏み込んだ内容に終始肌から感情が染み入るような感覚を覚えた。
PMSとパニック障害という、聞き馴染みはあるが実際どのような症状に悩まされているのかは、当人や家族、恋人や友人などごく一部の目の当たりにする人間にしか分からない事も多い。僕の子供はてんかんの持病を持っていて、その症状に触れるまで漠然としたイメージしか無かった。それまでも、通勤や街中でそういった人を見かけた事はあっても、いざ身近な事として触れる事がなければ、それが一体なんなのかは分からないままだったと思う。社会的な立場の中で、そういった症状はネガティブなものとして捉えられると思い、周囲に打ち明ける事が出来ない人も少なくないのかもしれない。打ち明けたところで、症状を目の当たりにしなければ単なるワードとしてレッテルだけが貼られるケースもあるのだろう。外傷ではなく、体の内側にある症状というのも理解が及ばない原因でもある。中々難しい問題だが、教育や社会通念として具体的な事象が共有されるわけでもないので、名前だけが一人歩きしている感もある。それがまさに藤沢に対する山添の最初の態度だったのは、致し方ない事だとも言える。それが現実社会のなかでの、PMSやパニック障害への理解なのではないだろうか。
藤沢も山添も以前の会社組織の中では、その症状がネックになっていたが、栗田科学株式会社の社員の対応を見る限りそれを受け入れた上で仕事に取り組んでいるのが分かる。山添は前の会社の上司だった辻本だけが知っていて、山添の感情が取り戻されていく瞬間を目の当たりにした時に涙する様子から、どの様な関係だったのかが読み取れる。辻本自身も姉を亡くした過去に対峙する人物でもある。
この映画は相互理解から生まれる人間関係を描いているが、生きる上での辛さを目の当たりにしている人々と、知る由もない人々との距離感も含まれる。良くも悪くも取り繕う関係と、あるがままを受け入れる人たちとの関係をドライかつ、優しく描く。辛い場面では支え合い、一方では何事もないように振る舞う。優しさというのは、慰みではない形で受け入れる事であり、相手をよく知ろうとする態度でもある。理解しようと試み、それを知り、手を差し伸べる。藤沢が「余計なお世話だよね」と話していた事は、恐らく多くの人が抱えるジレンマだと思う。辛さを理解するためには、弱さが露呈した状態に接しなければ理解した事にならないと思うのが常だろう。しかしその辛さが一体なんなのかを知り、想像する事は出来る。ただこの映画が警鐘を鳴らすのは、安直な情報が間違った知識を得る事もあるという事も含んでいる。それは山添が通う心療内科で、医師がエビデンスを問い、ネットの情報は声高なものが情報として入りやすい事を危惧していた。それはネット上でのエコーチェンバーが生み出す、バイラルへの罪の部分でもある。だからこそ、PMSについて書かれた本を、医師の目のフィルターを通して選ぶ本を手渡していたのだろう。
共助とは一体どういう形なのかの輪郭を描きつつ、支え合う事への問題提起を喚起している事が、この映画の伝えたかった事なのではないか。

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