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苦しいおもいをさせてゴメンね

大きめの枕を集めて椅子を作り、その上にバスタオルを当ててまだ小さい息子を寄りかからせる。
汗をかいているけれどまだ寒がっている息子が、毛布をかけても肌触りが気持ち悪くないように、とおもったのだ。
ネブライザーの水を補充するほんの少しの間、後ろでひゅーひゅーぜーぜーと弱い音を立てる早くて浅い呼吸が聞こえる。

「あっきー、苦しいね・・・」

ネブライザーをセットして病院からもらった気管支拡張のための薬を入れ、抱っこした息子の顔のそばでその蒸気を出す。しばらくするとほんの少し、息子の呼吸がゆっくりになる。
とはいえ、肩で呼吸するのは変わらず、小さな背中をさすりながら私が泣いてしまう。

時計は5時半を指している。もう少し。もう少し頑張れ。
小児科クリニックの救急を受け付ける外来は朝7時半に受付が始まるという。
あと2時間。移動までは1時間半。車で15分の場所だが、30分前には家を出ると決めていた。
今救急室(ER)に駆け込んでも診て貰えるのは2時間後。大人たちの持ち込んだ沢山のウイルスや菌が一杯の待合室。致死率のたかいインフルエンザが流行してERから毎日重症のお年寄りが集中治療室(ICU)にあげられているのは知っている。
どうする?今いく?いや、まだここで暖かくして置いてあげた方が良いんじゃないか・・・・こめかみがズキズキするくらい同じ事を何度も考える。


息子が熱っぽいのは夕方すぎに気付いた。
もともと喘息がある息子は、風邪などの感染症で咳が止まらなくなる咳喘息、と言われるタイプが主だ。
でも咳が出続けるときのほうがまだ良くて、こうやって咳をする体力がなくなり、肩で呼吸するのは本当にヤバイと感じる。自宅ではネブライザーを持っていて、中に入れる数回分の呼吸を楽にするための薬をもらってあるので、しばらくは乗り切れる。そう思ってずっと息子の呼吸をみていた。

寝られるわけがない。頭はガンガンしているけど、この子がこんなに苦しそうだ。真っ赤な顔をして、ぐすぐすと弱々しく泣きながら 力のはいらない指でしがみついてくる。
苦しいよね。そう言った所でこの子はまだ何も分からないだろう。お母さん助けて、と言う言葉すらまだ知らないのだから。


アメリカのERの酷さは自分自身がかかって よく知っている。ひどいからあんな有名なERなんてTVドラマができるんだ。
こうやってネブライザーをかけてもよくならなくて連れて行っても、結局同じネブライザーのみで家に帰されたことは何度もある。(それでもまぁ、峠をこえれば良いんだけれど)

ただでさえ調子のわるいときに、ひどい風邪をひいた大人ばかり居るERの待合室にこの小さい子を連れて行く方が可哀想だ。何度もおなじことを考え、何度も自分で下した結論に疑問を投げ、何度も同じように自分の判断を信じるしかない。

現に 昨夜だってあまり遅くならないうちに、と、夜8時くらいに小児科救急へ連れて行った。ここは夜12時まで開けている。大人の救急室で待たされるより時間も対応もきっといい、と信じて。1時間待たされて、やっと診てくれたのだが、そのままネブライザーを二度かけて帰宅指示。

「でもいつもよりひどいんです。おかしいんです」

そう母親の私が訴えても 若いPA(フィジシャンアシスタント、お医者さんじゃないけど診察・処方なんかはできる人)は聞いたふりして流している。小児科医師も若い。

「お母さん、大丈夫ですから」

「またひどそうなら来てください」

この状態で帰されるのに、どの状態になったらまた来い、と言っているのか。PAと小児科医の気持ちも分かる。でも様子がオカシイ、いつもよりひどいと親が思うのは本当だ。この若いひとたちはまだ、その「聞き流してはいけない」状況を多分知らない。
もちろんそれをすくい取っても十中八九、なんでもないのは知っている。でも「残りの1」に怖さがある。

だけど、患児の母はそれを言えない。

まだ呼吸が早いが「薬と熱のせいですよね」と帰された。分かっている、あとは私ができる限りのことをするしかない。

帰宅して それでも咳の合間にうとうとしていた息子は、夜中にぐすぐす泣き出した。身体がもの凄く火照ってきていた。
早く朝になれ、祈るような気持ちで アセトアミノフェンの座薬を使う。キレは悪いが、無いより良い。この薬は喘息もちのこの子には他のものよりは安全に使える。水分が取れないのだから今はまだ発熱させ汗をかかせ続けるわけにいかない。今の状況と感染症の状況とを見ながら、できるだけベストになる方法を手探りだ。

呼吸を楽にする薬はあんまり使うと心拍数が上がって本人が疲れたりするから、すこし間をあけて ただの水蒸気を与える時間も入れる。
まだ1歳になったばかりなのに。どんなに苦しいか。
じりじりしながら時計を睨み、少しでも息子が楽な呼吸を出来るよう抱き方を変えた。


朝一番で診て貰えるように早めに家を出た。娘もまだ小さいから二人とも連れて行かねばならない。昨夜仕事でいなかった夫にはテキストで簡単に説明をしておいた。夫は夕方まで動けない当番だとしっていた。

小児科クリニックの前に到着してから念のため受付に電話をするが、つながるわけもない。クリニックが開く時間まであと10分。車はアイドリングしたまま、クリニックのガラスドアが見えるところに止めて待った。息子の唇の色が悪い。電気がついたら時間前でも飛び込もうと思っていた。

雪は降っていないが霧がかかった寒い朝だ。こういう天気は喘息によくない。はやく電気、点いて。祈るような気持ちで 息子を抱きかかえたまま運転席から窓をみていた。時間が普段の3倍くらい遅い気がする。


やっと電気が点いたのはクリニックのドアが開く2分前だった。車を飛び出し、子供二人を抱えて階段を駆け上った。火事場の馬鹿力、こんな時に頭の中にヤケに冷静にその言葉がテロップ状にながれる。ドアは開いていなかったがガラス戸をどんどん叩いて入れてもらった。

「昨日から喘息発作で。昨夜インスタケアにも連れて行ったのですが、20分程前から唇の色も悪くて」

それだけ言うと、受付のひとがそのまま診察室に通してくれた。

早番らしき看護師が まだジャケットを着た格好で廊下を通ったのを捕まえた。

「すいません、ルール違反だとおもうんですが、サチュレーション(酸素飽和度)見てください、喘息発作、ひどいんです。いえ、待てないんです、今やって」

私の押し方が相当だったのだろう、看護師が苦笑いしながらモニターの電源をいれ、息子の手にサチュレーションモニターをつけようとした。

「手がつめたいので、靴下外します,足でやって」

もう面倒な母親とおもわれようがなんだろうがよかった。そして、モニターに

   SAT  85

の数字が出た。目眩がし、文字通り倒れそうになった。


看護師はその数字をみるなり息子には大きすぎる鼻カニューレを迷わず出して酸素のバルブを少し開いた。そして私に「顔の傍にあてていて」と渡してくれた。

その数字は日本だったら この年齢の子供には挿管・呼吸器使用の可能性も念頭に置かねばならない数字だった。
少しずつ機械音のトーンが高くなる。そして息子の全身の緊張が取れていく。

「あっきー、ごめんね、ごめんね。」

どうしようもなかったのだけれど。でもそうだろうか、本当にこの時間まで家で診ていたのは正しかったか。タイミングを間違っていなかったか。昨夜インスタケアではなくて大人が一杯でも通常の救急室に連れて行くべきではなかったか。いや、それがなにか良い事へつながったとは言えない。

画面の数字が97前後で落ち着くまで、自分を責めたり状況を呪ったり「でもとにかく、持ち直してよかった」と良い事のほうをみたり。

酸素を投与しはじめ、再度ネブライザーをかけたことで息子の状態は大分よくなった。ずっと弱々しく泣いていたのに、今はようやく寝ている。今度は私が泣く番だった。泣きたかったわけではない。ただ涙が出てしまう。一緒に連れてきた娘は朝が早かったからかつまらなかったからか、診察台のうえで私のコートの中に沈み込んで寝ている。

ごめんね あっきー、苦しかったね。
ごめんね、家で頑張りすぎたかな。

息子を抱いたまま、寝汗をかいている娘の髪をかきあげてやった。二人そろっての喘息発作じゃなかったことを有り難いと思おう。


結局レントゲンは見事なまでの肺炎像を示していた。しかし血液データから細菌性ではないようだ、とのことで「酸素ボンベを自宅で使いながら様子をみてください」になった。おおおお、さすがアメリカ・・・ウイルス性感染症に使える薬はないし、だとしたら高いお金を払っての入院ではなく「酸素ボンベ貸し出し」の自宅療養なんだ。


お昼頃までに持ち帰ることのできるボンベと、鼻カニューレの管をほっぺに固定するためのテープやらをもらって帰宅できた。午後には予備ボンベがサプライの会社から届けられた。


私は朝の内に仕事先に 子供の具合が悪く休むことを電話はしていたが、再度電話してウイルス性肺炎だったこと、在宅酸素療法のためしばらく母の私が家を空けることはできないことを伝えた。
しかし私の直上の上司であった日本人医師はものすごい剣幕で私に怒りをぶつけてきた。どうしてそんな簡単に仕事を休むとか言えるんだ、肺炎っていうならなんで入院じゃないんだ、ただの言い訳なんじゃないの・・・・等々。いや、わかります。この人のご尽力で伝手もなにもない研究室にいれてもらった。そして仕事が始まって4日目のことだから、腹も立つだろう。子供を持たない人だからそれがどういうことかって理解出来ないとか、日本の常識なら肺炎=入院管理なのに、家に帰れるならなんで仕事休むんだ、と言いたいとか。

それでもあんまりな言葉だった。きっかけがあったらもう辞めてやる、とその時決めた。

あとからラボのボス、秘書さん、他の研究員に叱られたらしいその上司は 私に(言葉の上で)謝ったが ちっとも私の「サボり」への怒りは解けていなくて、やってられるかと思った。それでも2年くらいは続けましたけどね。


息子は酸素さえ使っていれば 熱がない間は元気だった。元気すぎて酸素ボンベを持って追いかけるのが大変だったくらい。酸素の管は子供だから長めに3mくらいにしてくれていたのだが、ときどき自分で管に絡まって転がっている。滑稽だったが、あの晩のことを思いだしその度私は泣き笑いした。


幸い あんな大きな喘息発作は最初で最後だったが(まぁ喘息だけの呼吸苦ではなかったんだが)、アメリカでの受診タイミングの難しさ、入院管理の意識の違い、職場を休むときの母親の立場など、いろんなことを経験させてもらった。受診タイミングやその時の処置以外はアメリカ式のほうが理にかなってはいると思う。

でも・・・・息子には苦しい苦しい一晩を超えさせてしまった。ホントにごめんね。今元気に大きくなってくれている、それだけで嬉しい。たとえ母と殆ど口をきいてくれない年齢でも、おおきくなってくれてよかった。



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