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私の人生哲学と、「人類の歴史とAIの未来」〜「第二の時代:農業と都市」編(2/2)

ジャレド・ダイアモンドさん著、1995年ピューリッツァー賞受賞の「銃・病原菌・鉄」では、農業の到来を、約1万3千年前としている。
「銃・病原菌・鉄」によると、都市化による人口密度急増、家畜による動物密度急増が、疫病の蔓延、パンデミックをもたらした。「第二の時代:農業と都市」以来続いている、我々と疫病との闘争の史実である。

ビフォーコロナ時代、2017年出版「未来を読む AIと格差は世界を滅ぼすか」で、ジャレド・ダイアモンドさん、ユバル・ノア・ハラリさん、ニック・ボストロムさんが、オムニバス的に寄稿している。(AIと格差についての私の見解に関しては、以前noteに投稿した『「暴力と不平等の人類史-戦争、革命、崩壊、疫病 -」と「人類の歴史とAIの未来」を読み終え、司馬遼太郎に想いを馳せる』をご覧ください)
そこで、ジャレド・ダイアモンドさんが、未来に対する最大の懸念として、移民問題、テロリズム、疫病の3つを挙げていた。コロナ前に読んでいたので、コロナの流行に思わずビックリしたのを憶えている。
ジャレドさんは、貧困地域から、疫病が発生し、パンデミックになる可能性を指摘していた。
何処がグランドゼロ、発生源なのだろうか。それは、偶発的なものなのか、それとも、人為的なものか。
中国陰謀説が噂されている。こういう類は、おそらく証明が難しいので、本当のところは、知り得ないと思っているが、中国陰謀説の問題の本質は、信頼関係の欠乏にある。そうかもしれない、そうに違いないと思えてしまう、関係性こそ問題だ。何か不都合があれば、信頼してない、国・集団・組織になすりつけ合う、そういう構図が意図も簡単に出来上がってしまう。
ハラリさんはかつて、「政治の本当の難しさは、良いことをしようとすると、非常に難しいうえに、その影響も限定されるが、悪いことは意図も簡単に、壊滅的に出来てしまう、構造的な不均衡さにある」みたいなことを語っていた。
信頼関係の構築も、同様の構造を内包している。どちらの国・集団・組織が一方的に悪い、という類の位相ではなく、「第一の時代:言語と火」で、我々が想像力を獲得してからというもの、人類が抱える最も厄介な問題の一つだろう。

パンデミックによる医療崩壊(国・自治体機能不全)と、封じ込めによる経済不振は、トレードオフの関係に見えるが、

医療崩壊(国・自治体機能不全)の連鎖として、経済成長し続けるシナリオにオールインしている資本主義のギャンブルの敗北は、十分に起こり得るだろう。連続発生が最悪のシナリオである。

構造の不均衡性に起因する、政治の本質的な難しさに加え、かつてないほどの難しい舵取りに迫られていると思う。

データサイエンス業界で不確実性と向き合う日々のなか、身につけてきた感覚がある。

それは、何をやってもうまくいかない可能性がある
という事実を受け入れ、その事実から決して目を背けない感覚である。

その事実と向き合いつつ、

最も運が良いシナリオと最悪のシナリオを想起し、バランシング最適化を図るように心がけている。

最良と最悪の狭間に、現状をマッピングしつつ、良い事、悪い事、とにかく、新たに得た情報・知見に応じて、シナリオを上書き更新しながら、考えながら、自走する感覚でもある。

当面のコロナ禍、(運のいい例外は除いて)どんなに躍起になっても好転しない時期が続くはずだ。好転させられるスーパースター(政治家・指導者など)など、こんな時期には存在しえないとも思っている。そのくらいの心持のほうが、実態に即しているように思う。好転したらしたで、それは途轍もなく運が良かっただけだ。

好転しないから開き直るわけではなく、負のインパクトへの緩和や、最悪に向かわない努力は続けていきたいとも思っている。コントロール可能/不可能領域を見極め、その中で、やれることをやる。やりきる。それ以外のことは、人知を超えた、それこそ神の領域である。

データサイエンス業界は極端ではあるが、今後の未来が読めない、不確実性が高くなってきている昨今、幸せに・充実した日々を生き抜くには、どれも肝要な観点・心意気だろう。

ジャレドさん、ハラリさんとも、「第一の時代:言語と火」のほうが、「第二の時代:農業と都市」よりも、人類の幸せの総体は大きいと主張している。

ここで、ジャレドさんの、「銃・病原菌・鉄」と、ハラリさんの、「サピエンス全史」をそれぞれ引用する。まず、「銃・病原菌・鉄」から。

これらの疑問は、狩猟採集生活にはいろいろな問題があって当然だと思っている現代人にとって、いわずもがなとも思えるものだろう。かつて科学者たちは、狩猟採集者の生活様式を特徴づけるとき、「汚くて、野蛮で、ひもじい」というイギリスの哲学者トマス・ホッブズの言葉をよく引き合いにだした。それは、狩猟採集民がその日その日の糧を求め、ときに飢え死にしそうになりながら働きつづけなければならなかったと思えるからである。ろくに衣服もなければ柔らかい寝床もなく、生活を快適にする基本的なものをいっさい持たないでひたすら働き、そして早死にしていったと思われているからだ。しかし実際には、すべての食料生産者が狩猟採集民より快適な生活を送っているわけではない。今日、狩猟採集民より快適な生活を送っている食料生産者は、裕福な先進国にしか存在しない。彼らは、遠くはなれたところに土地を所有し、そこで人を使って農業をするというビジネスを展開することで、自分は農業労働に従事することなく食料を生産している。この方法によって彼らは、狩猟採集民よりも少ない肉体労働で、より快適な生活を送りながら、飢えの恐怖に怯えることなく、より長い寿命をまっとうしている。
しかし、世界の食料生産者の大部分は、貧しい農民や牧畜民によって占められているのだ。彼らは、かならずしも狩猟採集民より楽な生活を送っているわけではない。一日あたりの労働時間を調べてみると、貧しい農民や牧畜民のほうが狩猟採集民より少ないどころか、場合によってはより長い時間を働いているのだ。考古学の研究によれば、多くの地域において最初に農耕民になった人びとは、狩猟採集民より身体のサイズが小さかった。栄養状態もよくなかった。ひどい病気にもかかりやすく、平均寿命も短かった。これがみずからの手で食料を生産するものの運命だと知っていたら、最初に農耕民になった人びとは、その道を選ばなかったかもしれない。それなのに、なぜ彼らは農耕民となる道を選んだのだろうか。


次に、ジャレドさんより辛辣なハラリさんの著書、「サピエンス全史」の引用。

かつて学者たちは、農業革命は人類にとって大躍進だったと宣言していた。彼らは、人類の頭脳の力を原動力とする、次のような進歩の物語を語った。進化により、しだいに知能の高い人々が生み出された。そしてとうとう、人々はとても利口になり、自然の秘密を解読できたので、ヒツジを飼い慣らし、小麦を栽培することができた。そして、そうできるようになるとたちまち、彼らは身にこたえ、危険で、簡素なことの多い狩猟採集民の生活をいそいそと捨てて腰を落ち着け、農耕民の愉快で満ち足りた暮らしを楽しんだ。  
だが、この物語は夢想にすぎない。人々が時間とともに知能を高めたという証拠は皆無だ。狩猟採集民は農業革命のはるか以前に、自然の秘密を知っていた。なぜなら、自分たちが狩る動物や採集する植物についての深い知識に生存がかかっていたからだ。農業革命は、安楽に暮らせる新しい時代の到来を告げるにはほど遠く、農耕民は狩猟採集民よりも一般に困難で、満足度の低い生活を余儀なくされた。狩猟採集民は、もっと刺激的で多様な時間を送り、飢えや病気の危険が小さかった。人類は農業革命によって、手に入る食糧の総量をたしかに増やすことはできたが、食糧の増加は、より良い食生活や、より長い余暇には結びつかなかった。むしろ、人口爆発と飽食のエリート層の誕生につながった。平均的な農耕民は、平均的な狩猟採集民よりも苦労して働いたのに、見返りに得られる食べ物は劣っていた。農業革命は、史上最大の詐欺だったのだ。
では、それは誰の責任だったのか? 王のせいでもなければ、聖職者や商人のせいでもない。犯人は、小麦、稲、ジャガイモなどの、一握りの植物種だった。ホモ・サピエンスがそれらを栽培化したのではなく、逆にホモ・サピエンスがそれらに家畜化されたのだ。


最後に、一見どちらかと言えば、逆を主張してみえる、バイロン ・リースさんの、「人類の歴史と、AIの未来」を、引用する。

現在の狩猟採集民族の暮らしぶりから農業を始める前の人類の生活を類推すると、生きるために必要な食料を確保することはそう簡単ではなかったのだ。また、数日病気かをすれば誰もがたちまち生命の危機にさらされたであろう。そのような状況下では自然に、純粋に利己的な要因から集産主義が生じたはずだ。集団内で最も力がある者も、いつか他者の助けを必要とするときが必ず来るはずだ。皆で分かち合うことを知っている集団は、分け合わない集団よりもうまく生き抜くことができたであろう。だいたい、富を独占してため込む意味もなかった。富といえばその日に捕まえた、貴重な栄養源であるカブトムシの幼虫くらいのものだったし、それ以外に何かあったとしても保管する手段もなかったからだ。
現代のルソー信仰者はロマン主義という名のバラ色のメガネを通してこの時代を振り返りがちであり、現代社会の装飾によって破壊される前の、人類が美しい自然と調和して生きていたシンプルな時代だと考えたがる。だが、もし私たちがいま突然その時代に放り込まれたら、おそらく古き良き時代などと思うことはないだろう。そもそも、その時代は暴力的だった。ハーバード大学の心理学者スティーブン・ピンカーによれば、古代人の骨の分析結果は、その時代の狩猟採集民族のおよそ6人に1人が別の人間の暴力によって生涯を終えていたことを示しているそうだ。2度も世界大戦が起きた「血塗られた」20世記でさえ、そのような死に方をした人間は30人に1人だ。つまり、古代の狩猟採集民の人生は短く、苦痛に満ちた、厳しいものであったことは間違いない。しかしその時代は人間を試す場てもあった。そして、言語とともに、私たちの祖先は今日へと続く道を歩み始めたのだ。


一見、「第一の時代:言語と火」よりも「第二の時代:農業と都市」の方が、幸せの総体は大きい、と主張しているようにみえるが、そうではない。そう、「第三の時代:文字と車輪」の終盤の現代の方が、「第一の時代:言語と火」より幸せの総体は大きいと主張しているに過ぎない。しかも、「銃・病原菌・鉄」のジャレドさん、「サピエンス全史」のハラリさんとも、グローバル・大局的に地球人を対象に語っているが、「人類の歴史とAIの未来」のリースさんに関しては、先進国、とりわけアメリカ国民を想定して書いているように見える。マーケット・市場を想定して書いているのであれば当然のことだろう。現代の地球人の中央値と、1万年前の狩猟採集民族の中央値、果たしてどちらのほうが幸せを教授できたのだろう。
第一の時代で言語を獲得した。そして人類の進歩に必要な1つ目の必要条件、「想像力」を獲得した。小氷河期の終焉とともに「第二の時代:農業と都市」が幕を開け、狩猟採集の生活には無縁であり、農業を営むには不可欠な「計画力」を獲得していった。そう、未来という概念を発明したのだ。そしてそれが、人類が進化するための2つ目の条件である。

さあ、次なる進化、「第三の時代:文字と車輪」は、どうなのであろうか?

続く

私の人生哲学と、「人類の歴史とAIの未来」〜「第三の時代:文字と車輪」編(1/2)

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