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大地に還る日

どれだけ鏡を見てもアルバムをめくっても、私は何も思い出せない。

ここに写る女の二十年間の人生も、名前さえも。

一週間前、私は交通事故に遭ったらしい。部屋のベッドで気づいたときには記憶を失っていた。治療のために休学した大学の友人、という女の子たちが訪ねて来てくれたが、私には何もわからなかった。
わかるのはここが日本で、今が西暦2019年の12月だということ。それだけ。

「あ、起きてる? 留守番頼んでもいい?」
お母さん、という人が部屋にこもる私に声を掛けた。
「うん。怪我は無いし。行ってらっしゃい」

はじめのうちは見ず知らずの人に親しげにされるのは変な感じだった。

でも、はじめてのモノばかりに囲まれて、いっそ生まれ変わったつもりで人生をやり直すのもいいかもしれない、と思えるようになってきた。

なにも起こらない毎日。なぜか涙が頬を伝う。窓の外には澄み切った青空が広がり、紅葉の美しい松の木も見える。

……あれ? 松ってずっと緑の葉だったかも?
思いついて箪笥を見たが夏服しか入っていなかった。家じゅう探し回ったけど靴も無い。

しまったなあ。この辺、前回の修正をし忘れた。

お母さんが帰って来た。

ハンバーガーを買ってきてくれたので、私は台所に行ってコーヒーを淹れた。お母さんの取り留めのない話に私は相槌を打つ。
突然、カップを見つめるお母さんが明るく言った。
「あっ、茶柱が立ったよ!」
コーヒーに茶柱? 致命的なミス!

「ああもう! 終了!」

私が大声を出すと、映写装置が停止し、目の前のお母さんやインテリアが消えた。


鉄のドアを開け、シミュレーションルームを出てコンピューターを触る。
記憶喪失の少女という設定は我ながら良かったが、細部が甘かった。やり直しだ。


2030年に大地震が起き、世界中の原子力発電所がメルトダウンを起こして、地球の文明は息絶えた。
地下の最奥の研究所にひとりでいた私は、死こそ免れたものの、大気中の放射能が安全な濃度になる500年後まで、地上に出ることが出来なくなった。
他にも生き残った人たちはいるとは思うが、あふれる放射線が通信電波を妨害しているため、確認ができない。
ここの設備を使い、一番幸せだった時代を舞台に、違う人生を疑似体験しなければ、私は今頃正気ではいられなかっただろう。

最近、かつての生活の多くの部分の記憶があいまいになってきているのは、鎮痛剤の濫用のせいだろう。
そろそろ残った左足も機械にしようか。

あとたったの300年。

いっそ腐った部分など無い方が、その日を確実に迎えられるのならば。


〈終〉

写真:フリー素材ぱくたそ(pakutaso.com)

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