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気付いたらそこはジェットコースターのてっぺんだった【娘の記録①】

久しぶりの投稿です。

何を隠そう、ワタクシ、現在第二子妊娠中。
つわり、ツラァァ。な状況です。
娘のときはここまで辛くなかったけどなぁ…
ちょっと甘く見てたぜ、つわりさんよぉ。

実は娘のときと今回と妊娠時期が2週間しかズレていないこともあり、「4年前の今頃はこんなだったなぁ」とイヤでも娘を妊娠中のことを思い出している。

当時のことは1年前か?ってくらいよく覚えている。
それでも、きっとこれから先、何年、何十年もするとあの時の記憶も薄れていくのかな…。もちろん、いい思い出ばかりではない。でも忘れてしまうのはそれはそれでイヤだと思い、少しずつ整理しながらここに記録していくことにした。

今回は、娘(第一子)を妊娠するまでのこと、それから妊娠して異常が発覚するまでのことを書こうと思う。


多忙な日々の中で

さかのぼること今から5年前。
2015年に私たち夫婦は結婚した。

私は当時、公立中学校の教員をしていた。
受け持っていたのは中3。
その学年はなかなか大変な学年で、とは言っても本当に大変な生徒は数名で、残りの大多数の生徒は明るくて人懐っこくて、私はその学年の生徒たちが大好きだった。いや、そもそも嫌いな学年なんてないのだけれど。

今思えば、公私共に忙しすぎた。
夫も高校の教員をしている。
だから学校が夏休みの間に結婚式を挙げ、新婚旅行に行ってきた。
両家顔合わせ、入籍、式、新婚旅行と、4ヶ月弱の間に全てを詰め込んだ。なかなか無謀だったように思う。


そんなこんなで夏休みまではプライベートで慌ただしくしていたが、2学期になるといよいよ受験に向けて忙しくなってきた。
三者面談、定期考査、評価、また三者面談、志望校決定、面接練習、クラス40人分の内申書作り、内申書作り、内申書作り……の他に、日々の授業の準備、部活、何か問題が起きればその対応、家庭連絡、家庭連絡、家庭連絡……

退勤するのは、校内の警備員さんが勤務を終えてSECOMに切り替わる21時30分だった。
それ以降も残ろうと思えば残れるのだが、SECOMに連絡したり、出るときは小難しい操作をしなければいけなかったので、私は意地でも21時30分以降は残らないようにした。
そして行き帰りの電車の中では次の授業の準備を脳みそフル回転で行なっていた。自転車操業もいいところだ。

これで残業代出ないんですもの、そりゃ教員の人気なんて下がるに決まってるじゃない。これでも一応新婚なのよ、私…なんてグチを吐く暇もなく、月日は流れていった。

いや、嘘だ。
当時は月日の流れが遅く感じるほど毎日がハプニングの連続だった。
あまりにも生徒の問題行動が多すぎて、典型的な仕事できる系のクールなイケオジサーファー学年主任がガラにもなく神社に厄除けのご祈祷に行ったくらいだもの。あの時は学年の教員全員ビビった。ついに主任がおかしくなってしまった…と。いや、大丈夫だったけど。
それくらい皆、疲弊していた。


そんな多忙を極める日々の中で、私は赤ちゃんが欲しいと思い始めていた。強く、強く。


不妊治療の第一歩

私は元々重度の生理不順だった。ひどいときは年に4回しか来ないときもあった。おいおい、季節かよ。
そんな状態でしかも多忙で、赤ちゃんなんか簡単に授かるはずもなく、年が明けて受験シーズン本番に突入していた。

内申書作りがひと段落したある日、1時間程の残業を終えた仕事帰りに、意を決して婦人科に駆け込んだ。
問診票には、生理不順、妊娠を希望している、と書いた。最終月経は確か…2ヶ月前だっけ?覚えていない…不明です、すみません。

診察の結果、生理不順の原因はすぐ分かった。
卵巣の中にたくさんのポコポコした丸いものが見えたのだ。

「多嚢胞性卵巣」

そう言われた。
卵子のもとである卵胞が成長しきれず、中途半端な大きさの卵胞が卵巣内にたくさん残り、その結果いつまでたっても排卵できない状態だった。

先生には、1回薬で生理を起こして、次の周期から排卵誘発剤を飲み、タイミング法を試してみましょうと言われた。

不妊治療専門のクリニックではなかったが、まずはここからスタートしてみよう。ふぅ、いよいよここから長い長い不妊治療が始まるのか、と覚悟したのだった。


卒業と入学と、そして妊娠

季節は3月。生徒の進路もほぼ決まり、卒業に向けての準備が始まった。(この時期は重要な書類関係の仕事がとにかく多い)

そして実は同時進行で次年度の準備が始まる時期でもある。
まずは人事。
私は残り1年で異動になる予定だった。
そんな中で管理職に提案されたのが、新1年生の担任。
残り1年しかいないのに1年生の担任をしてもいいのだろうか。しかも、妊娠を希望している状況で…。
というのも、中学校は基本的には3年間担任団が変わらないのが理想っちゃ理想だからだ。もちろんそうはなかなかいかないのが公立学校の難しいところなのだが…。

管理職には正直に伝えた。残り1年だし、妊娠を希望しているのだが、それでもいいかと。管理職はそれでもいい、と即答。(それだけぎりぎりの状態で学校を回しているということだ。)
私は、戸惑いながらも新1年生の担任を引き受けることにした。

そしていよいよ担任していた3年生の卒業式。
式の途中であのクールなイケオジサーファー学年主任が泣いていた。あの!主任が!泣いてる…!そりゃズルイよ…と私ももらい泣き。
手前味噌かもしれない。表向きだけかもしれない。それでも、いい式だった。
大変だったけど、いい顔して卒業していったね、と同僚とちょっぴりセンチメンタルになっているときだった。

妊娠が分かったのは。


え、え、え、赤ちゃんってこんな簡単にできていいの…?
これが正直な感想だった。もちろん、とってもとっても嬉しかったけど。
だって、ゴールの見えない不妊治療という長い長いトンネルに入ったと覚悟してたのに。
まさかのタイミング法1周期目で。

このまま順調にいけば、夏休み明け1ヶ月くらいで産休に入ることになる。
さて、どうしたものか。

波乱の新年度が始まった。


気付いたらそこはジェットコースターのてっぺんだった

私の不安はどこへやら、当然のように新年度は始まった。
新しい学年団(またあのクールイケオジサーファーが学年主任だった)には早めに妊娠のことを伝えた。
皆、祝福してくれた。

それでも、やはり妊婦健診などで頻繁に休みを取らなければならなくなる。
健診が自分の授業とかぶるときは、事前に授業を変更してもらったり、空き時間の教員に補習に入ってもらわなければならなかった。
ご迷惑をおかけします、と申し訳ない気持ちでいっぱいだった。


新入生はというと、とても素直で元気がよく、全体的に落ち着いた雰囲気でのスタートだった。
授業もやりやすく、どのクラスも笑いの絶えない楽しい時間だった。(あぁ、あの子たちを3年間教えたかったなぁ…という思いは生涯忘れられないだろう。まぁ仕方のないことだけど。)

つわりは5月すぎに始まった。(遅くないか?)
ちょうど三者面談の時期で、3人程連続で面談するとオェェェ…とグッタリしていた。
その日の面談を終えて職員室に戻ると、小一時間動けなかった。

給食もしんどかった。サックサクのホックホクの分厚いメンチカツが出てきたときはどうしようかと思ったが、「30代にもなると胃がもたれちゃうから誰かあげる」と言うと、食べ盛りの中学生たちは大盛り上がりでジャンケンして完食していた。微笑ましい。
それでもどうしても辛いときは副担に代わりに給食指導に入ってもらい、私は職員室で食べられるものだけを食べてなんとか凌いでいた。

6月。つわりもおさまり、健診も順調。
安定期に入ったので全職員と生徒にも妊娠を公表した。
生徒も喜んでくれ、休み時間には女子生徒がお腹触らせてください〜と寄ってきては、ふっくらとしてきたお腹を優しく撫でてくれた。

7月。いよいよ夏休み目前。
成績をつけたり所見を書いたりするのに忙しいこの時期に、健診はちょっと面倒だった。
早く健診を終えて職場に行きたかった私は、いつもよりやたらと長いエコーに少々苛立っていた。
そして。


「うーん…あのねお母さん。赤ちゃんがね、小さいんですよねぇ。」


先生の口から出てきたこの一言で、私の幸せいっぱい順風満帆だったはずのマタニティライフは妊娠20週で強制終了し、そこから急転直下、ジェットコースターのように落下していった。

え、ていうかいつの間にジェットコースターに乗ってたの私。何なら並ばずにトロッコ列車にでも呑気に乗ってたつもりだったのに。

それでも、まさかここがジェットコースターのてっぺんだったなんて、このときはまだ知る由もなかった。


続く


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