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日本史のよくある質問 その9 伽藍配置って何?③

前回の記事では、法隆寺式や四天王寺式を代表例に、「塔」が重視されていた時代の伽藍配置について触れました。
もしよろしければ、①~②の記事もご覧になっていただけますとスムーズに読めると思います。
伽藍配置って何?①
伽藍配置って何?②

塔が重視された背景には、飛鳥時代の寺院の建立は、それ以前に盛んにつくられた古墳と同じく
・権威を示す
・祖先崇拝により、一族の繁栄を祈る

といった意味が込められていたことがあります。
そのため、飛鳥時代は「古墳」と「寺院」が並行して作られる過渡期にあたります。
それを示すものが、塔の基礎に仏舎利と共に収められた「勾玉」でした。

さて、その後時代は移り、仏教に対するスタンスも変化していきます。
それに伴って伽藍配置も徐々に変化していくことになります。
今回は、その点を追っていきます。


というわけで今回は、

飛鳥時代以降の伽藍配置

がテーマです。
ただ、今回は伽藍配置の話題というより、その前提となる飛鳥時代以降の仏教政策についてが中心になります。

まずはトップバッター、薬師寺について簡単に…。

薬師寺は680年、天武天皇の発願により、藤原京の地に造営されました。

その後、8世紀初めに平城京に移転、現在に至ります。
藤原京に建てられた当初の伽藍も10世紀ごろまでは存在していたらしいのですが、現在は失われています。
上の図の伽藍は、平城京移転後のものです。

そこで、まずは天武天皇の治世~平城京遷都までの様子を追っていきたいと思います。

天武天皇の時代は、日本にとって大きな変革の時期でもありました。
壬申の乱で大友皇子(天智天皇の皇子)率いる近江朝廷は滅亡しましたが、それは同時に、大王家(天皇家)を支えてきた畿内の大豪族たちが力を朝廷内での立場を失うことも意味しました。
畿内の大豪族の多くが近江朝廷に味方したためです。

実際、天武天皇の治世では、皇族が政治を主導する、いわゆる「皇親政治」が行われていました。

この壬申の乱、天皇の地位をめぐる(表立って起きた)初めての内戦です。
しかも今回の場合、天智天皇の地位を受け継いだ大友皇子を討伐しているので、天武天皇としては自分が正当な皇位継承者であることを示さなくてはなりません。

この危機感は、「天武」という言葉にも示されています。
この「武」は、中国の武王からとったとも言われます。
武王は暴君として知られる殷王朝の紂王を攻め滅ぼし、周王朝を打ち立てた人物です。

この武王の「武」の字を冠したとすれば、自分は悪しき近江朝廷を「天命」により征伐したのだ、ということを示そうとしたのでしょう。

さて、天武天皇が行った政策はいくつかありますが、その代表的なものは
・歴史書の編纂(古事記・日本書紀)
・仏教や神道の保護

などです。

まず、古事記や日本書紀の編纂ですが、政権の正統性を示すために歴史書を編纂する、という流れは、歴史上よく見られることです。
古事記や日本書紀についての細かいお話はまた改めて…。


そして、仏教や神道の保護ですが、今回は主に仏教について。
天武天皇の仏教政策は、「保護」というより「統制」に近いものです。

何故天武天皇は仏教を統制下に置こうとしたのでしょうか。
それには、以下の3つの理由があると考えられます。

①寺院の軍事的な重要性を看過できなかった
②各氏族が各々導入していた経典を規制する必要があった
③地方への「新しい宗教」を普及させる必要があった


まず①です。
仏教寺院は古代から近世に至るまで、軍事拠点として使われることが多い場所でした。

例えば、古代でいえば
・山背大兄王(厩戸王の子)は、蘇我氏に攻められ斑鳩寺で自害
など、最後の抵抗の場所として寺院を選ぶケースが多いのです。
これだけであれば、死に場所は氏寺で…ということなのか?とも思えるのですが、中世であれば誰もがご存知の
・本能寺の変
が挙がってきます。織田信長は本能寺を氏寺にしていたわけではありませんので、上の推測は成り立ちません。
実際、合戦時に寺院に本陣を置くケースは多く、古代から重要な軍事拠点として認識されていました。

なぜなら寺院は
・堀や石垣、壁が周囲を囲み
・金堂や講堂など、大型の建築物があり
・金堂などを守るための回廊がめぐらされ
・屋根は瓦葺きで防火性が高い

など、小型の城塞と言える構造を持っていたからです。
さらに、寺院には仏僧以外の人間も多かったため、彼らをいざとなれば軍事力として活用することもできました。

しかも、大寺院の多くは壬申の乱で対立した畿内の大豪族の氏寺です。
軍事力で政権を握った天武天皇にとって、軍事的優位性を脅かす存在を放置するわけにはいきません。
そこで、仏教をできるだけ「氏族」から切り離し、朝廷の統制下に移すことで、軍事的な脅威を低減しようとしたと考えられます。


次に②です。
仏教伝来以降、様々な経典が大陸から日本に伝来しました。
厩戸王が著したとされる「三経義疏」は、「法華経」・「勝鬘経」・「維摩経」という3つの経典の注釈書です。
厩戸王は「法華経が最も重要」とは言っていますが、他の2つも重要視していたことは間違いないでしょう。
厩戸王は、特に重要な経典を選んで注釈書を著した…ということは、他にも多数の経典が伝来していたことになります。

さらに、この時代は、公に伝わったもの(正伝)以外にも、氏族単位など、私的レベルで伝来したもの(私伝)の経典も多く存在していました。
各氏族がバラバラの経典を用いている状況は、各々の独立意識を保たせるだけではありません。
経典には様々なものがあり、中に天武朝の体制に対して悪影響を及ぼす内容のものが流入していたことも考えられます。
当時の記録にはありませんが、後の世でも権力者と宗教(仏教)組織が対立するケースは多々ありますね。一向一揆などはその代表例でしょうか。

また、古代では「出家(仏僧になる)」という行為が国家の支配から逃れる一つの手段として用いられています。
このような僧侶は山にこもって修行をし、仏教と山岳信仰を組み合わせた修験道の原型を作り上げました。

この修験道も、天皇を超える存在として自然神を見出していることから、天武朝で進められていた「天皇の神格化」にとって不都合なものでした。

これらのことから、天武朝では
・大寺院を経典研究の場とすることで、経典を掌握・統制する
・寺院から山林と池を没収(675年)することで、統制下に置けない修行の場をなくす
・僧尼は寺院内にとどまり、修行も寺院内で行うよう命ずる
という政策をとっています。

この結果、各寺院は朝廷の統制下におかれ、当初は経典の研究機関として、後に学問研究の中心として大きな役割を担うようになります。
さらに、朝廷の統制下におかれたことから、その祈りは「氏族の繁栄のため」ではなく、「国家の繁栄のため」になりました。
天武朝で重視された経典が護国の要素が強い「金光明経」などであることからも、この方針転換があったことが伺えます。
さらに、山岳信仰と仏教を切り離すことで、自然神と仏教の融合を抑制しました。
これらの施策により、祈りが個人や氏族、そして自然ではなく、国に向かうようになりました。


最後に③について。
天武朝の時代から、それまでほぼ国家の中央でのみで信仰されていた仏教の性質が変わってきます。
例えば675年に、諸国に命じて「放生会」を行わせています。

放生会とは、殺生を戒める仏教の教えにより,魚や鳥など生きものを野に放って肉食や殺生を戒め、慈悲を実践する儀式のことです。

さらにその7年後には「諸国に寺院を造り、仏像と経を置いて礼拝せよ」との詔が出されます。
このようにして諸国に仏教を浸透させようとしたのはなぜだったのか。

・壬申の乱以前の戦乱の多かった時代が終わったことを、「放生会」によって印象付けること。
・天武朝の下で統制された、全く新しい宗教を広めることで、全国を宗教的にも支配下に置くこと。

が理由として挙げられます。

つまり天武朝にとって仏教の地方普及は、重要な支配のツールだったと言えます。

この①~③が、いわゆる「国家仏教」に至る流れです。


さて、ようやく伽藍配置の変化を説明する材料がだいたい揃いました。
なので、ここからようやく本題!となります(前置きが長くてすみません…)

しかし、だいぶ話が色々出てきましたので、ここで一旦記事を分けたいと思います。
ひとまず今回はここまで、ということで…。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました!

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