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もう少しブラタモリ その1 「酒田市」

先日(2018年9月29日)、NHKの「ブラタモリ」で放送されていた山形県酒田市。

ブラタモリは、人文・自然科学など、色々な切り口からその地域を考えていく、素晴らしい番組だと思います。
ただ、番組の尺もあるので、取り上げることができなかった事も(撮ったけれどカットしたものもあるかも)あると思います。
そこで、その放送を踏まえて、実はこんなこともありますよ…という何かを書いてみることにしました。

歴史だったり、地理だったり、場合によって内容は異なりますが、ご笑覧いただければ幸いです。

というわけで今回は…


「もう少しブラタモリ」
酒田市の歴史+α

です。

酒田市といえば、ブラタモリでも紹介された「本間家」
北国一の大富豪で、日本一の地主とも称されました。

本間家の基礎を築いたのは、三代である本間光丘

生まれは1732(享保17年)です。
既に本間家は富裕でしたが、三代光丘が北国一の富豪の基礎を築いたといえます。

光丘は宝暦4年(1753年)、23歳で家督を継ぎましたが、さっそく試練が訪れます。
まず、彼は弱冠の身で酒田のおとな(町の世話役)を任じされます。
さらに、その翌年、東北地方を大凶作が襲うのです。

彼は世話役としてどのように立ち回ったかというと…。
惜しみなく私財を投じて窮民を救ったのです。
その活躍は時の領主、酒井氏の目に留まり、以後大いに目をかけられます。

この出来事から社会事業の重要性に気づいた光丘は、積極的に公共事業に取り組みます。
その事業は多々ありますが、代表的なものを挙げてみます。

酒田市の沿岸部は砂丘地です(庄内砂丘)。

沿岸部の住民は砂の害に困っていました。
そこで、光丘は防砂林を作ることを酒井氏に願い出ます。
許しが出ると、私財を投じ、自ら先頭に立って松の植林に取り組み、周囲の協力も大いに得つつ、5年もの歳月、試行錯誤を繰り返します。
そしてついに宝暦11年(1761年)に、現在残る松林の一部(山王森~光が丘松林)が完成します。

この時に植えられた松(クロマツ)の数は10万本と言われています。手作業で…。
気の遠くなるような話ですね。
彼の事業から300年をかけて、鶴岡市から秋田県境までおよそ34kmに及ぶクロマツの防砂林が完成しました。

彼の偉業はそれだけにとどまらず、天明の飢饉の際にも積極的に窮民救済にあたり、酒井氏領内では餓死者が出なかったといわれています。
また、財政難に陥った庄内藩(酒井氏)や米沢藩(上杉氏)の財政再建も指導し、同時に大いに援助し、救済を果たしています。

彼は、ただ援助するだけではなく、根本的な問題をきちんと解決することも忘れませんでした。
例えば庶民には備荒貯蓄(飢饉に備えて米や金を貯めておくこと)を奨励しましたし、各藩には特産品の生産増や支出・債務の削減など、長期財政計画を策定して財政再建を果たさせました。

ところで、彼が中心となって作った防砂林の一部に「光が丘」という名がついています。
この地名は、大正5年に光丘の偉業を称えて旧地名(長坂)から改称されたものです。
さらに、信心深く、生前寺社仏閣への多額の寄進を惜しまなかった彼は、大正15年、光丘神社が建立されるとともに神としてまつられることになります。


さらに本間家より前、北国一と称された大商人も酒田市の出身です。
その人物の名は鐙屋惣左衛門

酒田の町を取り仕切っていた豪商、三十六人衆の一人である池田惣左衛門が、慶長8年(1603年)、これまでの上杉氏に代わり領主となった最上氏に、鐙屋という屋号を賜り、名乗るようになりました。

元々廻船問屋でしたが、寛文12年(1688年)、河村瑞賢が西回り航路を開いて以後、酒田から江戸へ送られる米を取り仕切る問屋として大いに繁盛します。

井原西鶴の「日本永代蔵」にも、「北の国一番の米の買い入れ、惣左衛門という名を知らざるはなし、表口三十間、裏行六十五間を家蔵建てつづけ」と書かれており、その繁栄ぶりがうかがえます。
※1間は1.81818m

元禄期から正徳期にかけては、本間より鐙屋の方が、全国的には名が知られていたのです。
ちなみに、三十六人衆の中で現在でも酒田に残っているのは鐙屋のみ。

そういった意味でも、歴史的にとても興味深い屋号です。


ところで、三十六人衆とはいったい何者か。
その歴史は酒田の発祥にまでさかのぼります。
酒田の町をひらいたのは、「徳尼公」という尼僧と、それに付き従っていた36人の従者たちだったと言われています。

この尼僧は一体何者だったのか…という点ですが、これについては諸説あります。
現在主に言われている説は、奥州藤原氏の滅亡の際、秀衡の妹(徳の前)、あるいは後室(泉の方)が、36騎の従臣たちを従えて酒田に逃れ、そこで「泉流庵」という尼寺(現在の泉流寺)を建て、

藤原一門の冥福を祈りながら90歳でなくなるまで静かな日々を送ったというもの。
そして、36人の従者たちも主に従って酒田に住み、回船問屋を営んで町の繁栄を支えました。これがいわゆる三十六人衆の始まりであるといわれています。

ちなみに、この地域の特産品として有名なものに「紅花」

があります。
江戸時代中期に急速に栽培が拡大したのですが、山形が特別に紅花栽培に向いている!というわけではないようです。
どうやら、西回り航路の拠点である酒田から出荷すれば、三十六人衆の力で、染料の需要が多い上方(京都や大坂)、そしてその先の江戸での需要に応えられたからではないかと言われています。

しかしそれではロマンがないので、女性である徳尼公を偲んで紅花の栽培を盛んにおこなったでのはないか、などと考えてみたら、少々ロマンがある気がしませんか?
(当時、紅花は高級化粧品として口紅や頬紅の原料になっていました)


そして、酒田を商業港、都市として整備した人物も。
それは初代亀ヶ崎城主、志村伊豆守という人物です。
彼は最上氏の家臣で、非常に優秀な人物でした。
関ケ原の合戦以前は、この酒田周辺は上杉氏の領地でしたが、内陸に領地があり、港が欲しい最上氏は、関ケ原の合戦に乗じてこの地を攻撃・奪取します。

その際に戦功著しかった志村伊豆守にこの地が与えられ、彼は戦災の復興と同時に、港の整備、都市整備などを行いました。さらに、税制を整備するなど、商業を活性化する基盤を作ったのです。
彼の統治下にあった慶長7年、浜に大きな亀が打ち上げられたことを受けて、亀ヶ崎と改名したのです。


江戸時代、北国随一の港として栄えた酒田市。
その歴史の中には、様々な人物が行き交っていました。
町を巡る際、そんな人々に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

今回はこれくらいで…。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました!

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