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春の風とレモネード

ストレンジシード静岡が気になって、ひとりで静岡に出かけた。県をまたぐひとり旅は2回目だ(思えば前回も観劇のためだった)。在来線を乗り継いで、片道4時間ことこと電車に揺られていった。自他共に認める地理の弱さ、人見知りかつ迷子常習犯なので、ひとりで知らない場所に出かけることのハードルはすごく高い。でも今回は、行かなきゃ後悔する気がする、という根拠のない予感のもと、お財布に謝りながら行くことを決めた。

静岡駅に降り立ったときから(いや、道中からか)、無防備な安心感と居心地のよさがあった。私のマイペースさと相性がよかったのかもしれない。町並みがどこか盛岡に似ていたからかもしれない。でもたぶん1番は、大好きな人たちがここにいる、ここで会えるとわかっていたからだと思う。だってほら、開演したとたん、勝手に「まちあわせ」したような気分になって、この世界にまた会えた嬉しさにたちまち包まれる。ストレンジシード静岡のコア企画、劇団ロロの「パレードとレモネード」。今回は市民を中心とした一般参加者の皆さんも出演しており、また新しい面白さが生まれていた。そして今回は野外だからこそ、登場するいろんな人たちが、本当に道行く人になる。後ろの通行人の人との境界線はたぶんなくて、みんないま青葉シンボルロードを歩いている。何やってるんだろう、と立ち止まったそこのあなた、あなたもこの世界の住人ですよ。ちらっとこちらに向いたその視線、それすらもあなたのキャラクターになる。すれ違う誰かが気になり始める。空間がとけて、広がり始める。そしてロロがずっと持っている、人物ひとりひとりへの愛情と愛着と、やさしくユニークな視点の数々。嬉しくてたまらなくなる。笑いながらなぜかぽろぽろ泣けていて、でもロロを観ているきらきらつやつやしたお客さんたちは、それに気づかないふりをしてくれる。あるいは本当に気づかないで、ロロと自分とで向かい合っている。最近の私は、自分の好きなこと、やりたいこと、心動くものって何だろう、ちゃんとあるよね、あるはずなんだけど、あるんだけど、たまに不安になることがある。そんな中で、いつまでも大好きだなあと思えることが、ものが、人が、時間が、あると確かめられること。本当にしあわせだと思った。

それからレモネードを買ったり、大きなスピーカーで音楽がかかっている喫茶店でフルーツサンドを食べたり、わさび漬けのおみやげを買ったり、屋台や出店を巡ったりして、のんびりのんびり過ごした。

午後になって、お城のある公園でワワフラミンゴ「タヌキのへそくり」も観劇。客演として出演されている作品は観たことがあったが、ワワフラミンゴとしての上演を観るのはこれが初めてだった。脱力感のある会話劇で、前のめりにならずリラックスして楽しめる。なんなら寝っ転がって観ていたいくらい、安全でやわらかな時間がそこにはあった。やわらかいからどんな形にもなる空間でもあって、会話がくるくる変わっても、だんまりしても、そのための時間空間がいちいちちゃんと生まれてくれる。そしてそれはいつも開けていて、来るもの拒まず去るもの追わず、出入り自由な空間なんだ。たとえ大笑いするようなエネルギーを持っていなくても、からだがくすっと笑ってふわっと元気になってしまう。初めて出会う感覚だった。春の外の空気がとっても似合う皆さんだな。

日帰り旅だったので、観劇後は名残惜しいながらも会場をあとにした。すごく開けたイベントで、演出家さんや役者さんとも少しお話できたりもして、思い返すだけで嬉しくなっちゃう思い出になった。

4時間乗り続けた仲だから、電車のよさも改めて感じた気がする。高校3年間の電車通学、私にとっての電車はずっとのんきで安全な空間だったから、東京の満員電車はどうしても落ち着かない。今回は初めて乗る路線もあったけれど、感覚には覚えがあった。これこれ、私の知ってる電車の感じ。乗客は登場人物、車窓は物語。車を洗っているお父さんが見える。公園で遊んでいる子どもたちが見える。いま通りすぎた一瞬のまち、でもここで暮らしている人がいること、確かに誰かの生活があること、それだけで旅のページは増える。旅先は私にとっては旅先だけれど、誰かにとっては日常で、毎日なのだ。当たり前のことだけれど、いろいろなまちでいろいろに育ち、いろいろに暮らす人がいること、まだ知らない場所があることが、静かに嬉しい。富士山も、熱海の海も、山々もまちも、まるごと綺麗だった。旅に出てよかった。いい町だった。


劇団のみなさん、イベントの関係者の皆さん、電車の車掌さん、運転手さん、いろんなお店やさん、静岡のみなさん、素敵な時間をつくってくれた全てのみなさん方、本当にありがとうございます。

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