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男の文章?女の文章?

私の書く文章は、人にどう映るのだろう。

女の人が書いている文章?
男の人が書いている文章?

そんなの、どっちでもいいか。と思ってもらえたらいいなあと思っている。

普段の生活で、性別を2つに分けて、どちらかにいないといけないのが、嫌なんだと思う。

願望を込めて、分けられなくて済むように書いているんだと思う。

そういう願望は昔からあった。

私は小学校生活の2/3ほどの期間を異性ばかりの運動部で過ごした。

男、女という言葉を当てはめて読んでほしいのだが、
○の子みたいだね。○の子なのにすごいね。
と度々言われた。

男女の体格の違いが、まだあまりない頃で、男女差を感じていなかったこともあって、男女で分けられるのに純粋に違和感を抱いていた。

珍しさゆえ、チヤホヤされて、自分の特権のように思うこともあったが、それもまた、違和感に繋がっていたと思う。

練習で身につけた技術も、性別で評価される。

違う。私を見て。

男か、女かを見てほしいんじゃない。
私を見て。

この文章だって、今までのnoteも、1つも例に漏れず、どんな理想を並べても、結局、私を見て、と述べているんだと思う。

他の人を見るときも、視線の先には自分を見つけている。

自分と似た人の文章には、その中に自分を見つけ、似ていない人の文章には、こんな人がいるんだあと思いながら、その反対側の自分を見つめる。

誰かがいてくれないと、自分がいるのかも分からない。

それなのに、またnoteに、性別を表記せずに、私を見てと書いている。

迷ってばかりで答えをしっかり持てていないのに、まるで分かったような文章を書いているのに。

自分について、よく分からないことの1つに、性的指向(どんな人を好きになるか、好きにならないか)と、性自認(自分がどんな性であることを自然と感じるか)がある。

私が持ち合わせる性に関する知識は多くない。

そんな私が、オリンピックで男子、女子のどちらにどんな人が出場できるのかとか、大きな話に見解を出すことは難しい。

感覚は千差万別。
誰一人、切り捨てずに課題を解決しようとすること自体が間違っているのかとすら感じてしまう。

それでも、そんな私でも、こうあってほしいという希望がある。

みんなが悩めるように、迷えるようになってほしい。

たまに、テレビで問題視される発言の中、当たり前に日常で発せられる言葉の中には、人が性について、悩むこと、迷うことを否定するものがある。

私は悩み、迷うことで生きてきたからか、そこは否定しないでほしいと思う。

好きな人に会う前日の夜、ベットに入り明日の服を脳内リハーサル。
やっぱり、こっちじゃないか、あれの方がいいか。朝起きてから、一張羅でキメてみるが、うーん、どうしよう。

この迷いや悩みに対して、当人の尊敬する人にアドバイスされても、専門家に分析されても、好きな相手に直接、この服どうかな?と聞けたとしても、納得できないかもしれない。
通りすがりの人から言われた一言ですっきりするかもしれない。
アドバイスさえ、求めていないのかもしれない。
数日後には、その日にしていた服装について、なんて間違えしていたんだと思うかもしれない。
そもそも、デートの服に迷いが生じない人だっているだろう。

性的指向も性自認も、それくらいに、誰もが違う感覚を持ちながら、悩めて迷えたらいいと思う。

その悩みと迷いを、デートの服選びくらいに、誰にでもあり得ることで、ある人からすれば悩まず迷わず決められることでもあると認識されたらいいのかなと思う。

私がそうして欲しいだけなのかもしれないね。

また書けば書くほど、自分を見てほしいと言っている気がする。

この文章を、誰かが読んで、私を見ながら、自分を見つめる手段やきっかけにしてくれたら、嬉しい。

こうやって人に縋(すが)ることしかできない。

私を見てくれるのは、私以外の誰かで、誰かに見てもらえて、やっと、自分の輪郭をぼんやりと感じることができる。

だから、私の文章を、男の文章か、女の文章かじゃなく、私の文章として読んでほしいと思うんだろう。

よく分からない私を見てくれますか?


#性 #雑記 #エッセイ #疑問