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伊丹映画の食・性・死

伊丹映画には、毎回きまって「食」にまつわる場面、「性」にまつわる場面、「死」にまつわる場面が登場する。伊丹映画印となるそれらのシーンを振り返ってみたい。


伊丹映画の「食」

 『お葬式』の冒頭、生々しい質感で映し出されるアボカド、鰻、ロースハムのアップ。伊丹映画の「食」はここから始まった。
 エッセイでも食へのこだわりを示してきた伊丹だけに、単なる食事風景は伊丹映画に存在しない。画面に登場する食物は俳優たちと同じ重量級の存在感を放つ。

『マルサの女』の食料品店のシーンは、ロケ地に魅力が欠けたこともあって、食品のクローズアップのみで店の雰囲気を出している。コロッケ、かきあげなどの豊かなディテールがありきたりな店内風景を映すよりも遥かに印象を残す。
『マルサの女2』冒頭の政治家たちが食い散らかす蟹。マルサが踏み込んで来た際に三國連太郎が慌てて口に入れるハムエッグ。『あげまん』で宮本信子が作る弁当。『ミンボーの女』でヤクザがゴキブリを仕込む豪華料理。『大病人』のケーキ。『静かな生活』の美食家夫婦が提供する料理の数々。『スーパーの女』の食材へのこだわり。『マルタイの女』の中華料理店で出される鳥料理と、伊丹映画を思い出すと、数々の〈食〉がディテールとともに思い出される。

 そして、食の連鎖で映画を語る『タンポポ』はラーメンに始まり、パスタ、フランス料理、焼き飯、オムレツ等々、伊丹映画の「食」の集大成だ。この作品のエンドロールに登場する母乳を吸う乳児のアップこそは食の原点だが、次作『マルサの女』の冒頭では、死を前にした老人が看護婦の乳房を吸うところから始まり、「食」を介して生と死が結びつく。

 伊丹映画おなじみのセックスシーンも、『タンポポ』では全て「食」を介して行われる。役所広司と黒田福美の伝説的なフードFUCKは、乳首にコショウとレモンをまぶして吸い付くところから始まり、伊丹ファンで知られる大根仁監督が『モテキ』で水を使った口移しのシーンでも引用した、卵の黄身を口移しで行き来させるカットは、「食」をエロスへと昇華してみせる。
 もうひとつ、『タンポポ』で忘れがたいのは、洞口依子が演じる海女の少女が、自らの掌に広げた牡蠣に役所が口を近づけて吸い付くシーンの鮮やかさ。『タンポポ』こそは伊丹が全作でこだわり続けた「食」と「性」の到達だったように思う。


伊丹映画の「性」

 子どもの頃、テレビ放送される伊丹映画を親と観るのが気まずかった。伊丹映画には決まって際どいシーンが出てくる。それもゴールデンタイムに放送して良いのかと思うような強烈な描写で。
『ミンボーの女』では、宝田明が若い娘の上着の胸元を摘んでハサミで切り取り、オッパイを丸見えにさせるが、伊丹映画のなかでは、これぐらいは序の口である。
 葬儀の準備中に山崎努の愛人が乱入する『お葬式』では、裏山で青姦にいたる。しかも愛人役の高瀬春奈はムッチリした体型だけに、下着を尻へ強烈に食い込ませている。そこを山崎が立ちバックで挿入して激しく突く。その頃、妻の宮本信子は、喪服のまま遊動円木に乗って揺れている。山崎の腰の動きと円木の動きがカットバックされるという、実に直接的な表現だが、伊丹映画の偏執的エロスを印象づける。

 伊丹映画のメインスタッフは、日活出身者が大半かつロマンポルノ経験者が多い。撮影の前田米造は70本以上のロマンポルノを手がけたベテランである。それゆえに性描写にはより拍車がかかる。
 たとえば『マルサの女』では、セックスを終えた志水季里子の股間に、山崎努がティッシュを入れる。次のカットでは、全裸で歩く志水の後ろ姿になるが、股間に挟まったままのティッシュがチラチラ見えている。これは曽根中生の『わたしのSEX白書 絶頂度』を引用したカットだが、そんなことを知らない小学生がテレビでこんなシーンを見せられては、呆然とするのも理解いただけよう。 
『マルサの女2』では、三國連太郎と柴田美保子のセックス後の火照りが濃密。股を開いて紅潮した顔をトロンとさせた柴田に連太郎が「お前ほど顔に出る女も珍しい」と言い放つ。

 伊丹映画にとって「性」は、「食」「死」と共に人間の営みを描く上で欠かすことができない描写であるだけに、時には不必要と思えるほど、しつこい性描写が加わることになる。
 とは言え、『スーパーの女』の津川雅彦と宮本信子のベッドシーンのように、そこまでやっていただかなくて結構ですと、ゲンナリさせられるものが後期の伊丹映画に増えてくるのも事実である。


伊丹映画の「死」

 常に「死」の影がつきまとっていた伊丹映画。
 デビュー作『お葬式』は、まさに「死」から始まる映画だったが、『タンポポ』のように、食の快楽に満ちた映画にも「死」は存在する。幼い子どもたちを残して死ぬ間際の母親が、最後の力を振り絞ってチャーハンを作って息絶えるエピソードは、「死」と「食」を混在させる。同作で狂言回しを演じる役所広司が、白いタキシードを血に染め、食べ物の話をしながら死んでいく壮絶な最期にも「食」と隣合わせの「死」が強調される。

 51歳で監督デビューした伊丹は、晩年「もう少し早く、監督を始めてれば良かった」と漏らしていたというが、監督としての絶頂期を迎えると同時に、押し寄せる老いが自作に「死」を刻み続けたのだろうか。
『ミンボーの女』公開後の襲撃事件を経て、伊丹映画の「死」はより明確な形になって描かれるようになる。『大病人』のキャッチフレーズは「僕ならこう死ぬ」。自殺未遂による臨死体験から安らかな死までを描いたものの、観客に伊丹の死生観が理解されたとは言いがたい。
『静かな生活』の劇中劇で、三谷昇は追いつめられた末に屋上に昇り、ロープを首に巻いた上で飛び降り自殺を図る。また、同作では、山崎努は部屋の梁にロープを掛けてカバンを吊るし、首吊りの実験を行なっているところを妻に発見される。
『マルタイの女』で津川雅彦は、夢の中という設定ながら、ヤクザたちを銃殺した後、自らのこめかみを撃ちぬいて決着をつける。その後の伊丹の自死を踏まえると、後期の伊丹映画に、生々しい死の描写が増えていたことは確かである。

 伊丹が亡くなる前月、伊丹映画10本記念に、これまでの出演者が一堂に会する催しが開かれた。その際に亡くなった出演者を弔うべく『大病人』のクライマックスを模して、出席者一同で般若心経が唱えられた。
 「死」にこだわり続けた伊丹らしい一幕だったが、これが公の席に伊丹が姿を現した最後となった。



初出『映画秘宝 2012年1月号』に加筆修正

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映画監督伊丹十三とは何者だったのか? 伊丹十三と伊丹映画を、13本の記事と4本のコラムをもとに再発見する特集です。

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