4歳のきおく

※性の話だよん!(苦手な人はブラウザバック)


この前、性の話したけど、今回はわたしが「性ははしたないものだ」という概念を


なぜ深層で持っていたのか。その個人的な記憶の原点と、今のわたしが4歳のわたしに伝えたいことを記そうと思う。

なぜかわからないけど、あの時は4歳のころだってはっきり確信してる。

リビングにいて、母がキッチンで料理をしてる後ろの床に毛布をしいて座っていた。


多分さいしょは遊んでいたんだと思う。1人で。それでなんとなく横になったんだよね。


母は料理に集中している。わたしを見てない。その時なぜか、「今だ!」って思った。


彼女が見てない隙に両腕を太ももの間に、そして足をクロスさせ太もものうちがわにギュッと力を入れた。


すると、アソコと下腹部あたりがジーンと暖かくなってとても気持ちよかった。


誰にも教えられたことはないし、わたしは何も知らなかったけど、なぜかそうすると気持ちいいことを体が分かっていた。


4歳の私にとって初めて、からだの神秘についての大発見をしたのだ。


それから私はリビングやいろんな部屋で、両親が他へ視線が行っているすきに、太もものうちがわに力を入れて気持ちよさを感じていた。


そしてある時、うしろでモゾモゾしてるわたしを見つけた母がこう言った。


「なに変なことしてるの?笑」


その瞬間、4歳のわたしはなんというか、体全身でショックを受けたのだ。


彼女の反応、表情、言葉全てでその雰囲気を感じ取った。

そして、妙な顔つきをしながら叱られた。


そこでわたしは「性ははしたなくて、汚くて、良くないモノなんだ」


という価値観がはっきりと刻まれたのだ。


でも、大人になって正直思う。


どうして大人たちは早く、「性はこんなにも素晴らしいものなんだ」と教えてくれなかったんだろう?

って。

そして、「体を晒すことが恥ずかしいということや避妊すること以外には気持ちよくて楽しいのに、


どうしてこんなに蓋をして生きなきゃいけないんだろう?」


って。


性についてしっかりしつけるべきことは確かにあると思う。


避妊はもちろん、


1人1人に尊厳があって、合意されたもの同士で触り合ったり、やったりするべきということや


裸で公道を歩くことは禁止にするということや。


それは、そう。確かにそうだ。


しかし、性的な表現を避ける傾向にあるのがどうしてなのか、ほんとにどうも分からない。


だってあの時4歳のわたしが体感したのは、


性=生命の神秘そのものだったから。


しかも人間として産まれて死ぬまで切っても切り離せないものなのだろうに。

ましてや、生命体から生命体へと未来に繋いでいくには必要不可欠だ。


それなのに、あまりにも臆病。おかしい。


赤ちゃんの時から性を持ち、大人になって成熟する時には体はハッキリと特徴づいている。


その事実をわたしは単純に無視したくないだけなんだ。


そしてこれはいやな言い方かもしれないけど、過度なフェミニズムやロリコン文化、そしてLGBTQの問題の起源は


性の抑圧にあると、わたしは考える。


もし、性に対してしっかりと扱い方を教えてもらっていたら。

もし、環境自体がどういう傾向にあって、自分自身はどうバランスを取ればいいのかということに向き合えている場があったら。


こんなに迷子になることはないと思う。


女性と男性の性そのものを上手く扱うことさえできない世の中で


多様性を頭ごなしにうたっていても、恐らくそれは


性を持った人間としての自分自身から逃げるのか、


本来の性を発揮できず、あやうやで希薄なまま漂流して終わる


のかな、と、ちょっと危惧している。


ちなみに、わたしは多様性を嫌ってるわけではない。


もちろん、同性同士で結婚できる制度はあるべきだし、いろんなパートナーがあっていいと考えている。


でもただ同時に、なんというか、妙にバランスが偏っていて、違和感も感じるのだ。


新しいものと伝統あるもの。


新しいものを受け入れながら、いま、伝統あるものを改めてなぞり直すことが大事だと思う。


だから、私のなかにいる4歳の頃の記憶のわたしにこう伝えたい。


「性は素晴らしいものだよ。社会的に守るべき最低限のルールは守りながらも、自分の性を探究し、自分らしくそれを表現していいんだよ。」


って。

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