いま性の表現にこだわりたい理由
今回は長くなるゾ〜!
時はそう。2023年入ってすぐ、わたしがブッダスクールで弥勒力を受けていた時だ。
その時は特別になにか考えてたわけではなかった。ただ単純に好奇心だった。
わたしはヌードを撮ってもらったのだ。写真家の友達に。
人生一度しかないし、今までやらなかったけどやってみたかったことをしたいと思っていた。
べつに性の体験がなかったわけじゃない。
無我夢中で彼女に撮ってもらって、そして夢が叶ったあの空間を漂いながら、心のどこかで思った。
「体験することと、表現することはまた違うんだなー」って。
体験はただ受け身になればいい話なのだけど、表現するということは、自分から発していかなきゃならないわけだ。
絶賛暇を持て余してるわたしにとってこれは最高の旅になる、と思った。
それからわたしは次にトゥワークを挑戦しだした。トゥワークとはお尻を動かすダンスのことだ。
一曲踊ったその動画を弥勒力の発表会で公開した。
なかなか難しかった。お尻が思うように上がんないのよ。
そしてもう一つ、私は絵を描いた。これも弥勒力で公開した。これからの私のサブビジョン的なものを意味する。
とにかく、なぜだか分からないけど、性の表現が溢れてくるのだ。
もちろん、私のビジョンと関係あるのはあるんだけど、今私にとって必要なのはとにかく性に関することなのだ。
そんなに溢れてくるのも不思議だったので、自分で自分に聞いてみた。
行きついたエッセンスはどこもかしこも「自分の意志」に関するものだった。
それだけ私は意志を必要としているし、意思を持つためには性を通過しなければならないのだ。
ほんとになぜか分からないけど、そう確信している。
あと、この前ショッキングな事実が発覚したのだ。
それは、わたしの意識は赤ちゃんだったということ。
まだなんの意思も持ってない赤ちゃん。
膝からくずれ落ちるぐらいショックだった。
心底知りたくない事実だけど、底を見つけなきゃ進めないわけで。
今からでも少しずつでいいから育てていきたい。私と私の中のアニムスを。
赤ちゃんから意思を持った1人の人間になるためには、性は持たないといけないし、避けられない。
だから多分これから性的な表現は増えるかもしれない。(もちろん社会的にアウトな部分には触れないように考えなきゃだけど)
そして、まだ終わりじゃない。いまここに私の恐怖が押し寄せているのだ。
「もし、私が性を表現したら、嫌われるかもしれない。」
「嫌われるのが怖い。1人になるのはいやだ」
そういう気持ちが溢れてくる。緊張でふるえる。
あとやっぱり、長年いた環境によるけど「性を表現してはいけない。性的なことはあまりいいものではない。」
という無意識のこの家柄特有なのか地域特有なのか日本特有なのか分からない閉鎖的な考えが自分の中に染みついてる。
ほんとにいやだし、うんざりしてるけど、取れないの。
表現したいと頭では思っても、心の奥では「性ははしたないものだから、表現してはいけない」と感じている。
だから私も、そう思ってる1人なんだ。認めるのは辛い。
表現したいけど、恥ずかしい。したいけど、できない。そういう自分。
でも、もう1人の新しい私もいる。それは
「性は素晴らしいもので、自分を成長・成熟へと導くものだ」
と思っている者だ。
そして私の一生やっていくビジョンは
「誰も通ろうとしなかったところや、通りたいけど避けてきたところをこじ開ける」
なのだ。
そしてわたしがすきな齊藤つうりさんが言っていた。
「心から怖いと感じてるものこそ、実は自分がいちばんやりたいことなのだ。何かするとしたら自分がいちばん抵抗を感じるもの、怖いと感じるものをやりなさい」
って。
だから、だからこそやはり、やりたいのだ。
わたしが今いちばんやりたくて、いちばん恐れている、
性の表現を。
私の成長・成熟の通過点を通るついでに、環境の問題点も突っついてこうと思う。←まじ性悪女
そして突っついたらわたしはこの国を一旦出ようと思う←まじ性悪女×2
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