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何故、男社会は「女性らしさ」を認めないか? その2

前回は、男(社会)というのは「男=人間、女=人間の下位互換」という認識なのではないか?という話でした。

というのも、統計数理研究所という機関が「生まれ変わったら男になりたいか?女になりたいか?」というアンケートを取っていて、それを見ると…

出展:統計数理研究所「日本人の国民性調査」

どうでしょう。女性は60年以上前、男に生まれたい人が多かった。それが、女性の社会進出や治安の向上とともに、ようやく女性に生まれたい人が増えた。それでも、次は男に生まれたいと思っている人が25%弱いる。
一方男はどうだ?「女の人生はイージーモード」「女性ばかり優遇している」と言われている割に、今も昔も「男でよかった」と思っている人が9割もいるじゃないか。女に生まれたい人なんて、ずっと10%切っている。

実際(性同一性障害は別に考えるとして)「男に生まれたい女性」は、「今ある能力をそのまま男に投影できたら」と考えるのに対し、「女に生まれたい男性」「ちょっとは女性になってみたい男性」は、なぜか「美人に生まれること」「若いこと」前提でものを話すんだよねw

つまりこういうことではないかな?
ペットの犬や猫を見て「いいよなぁ、俺も犬や猫になりてーな」と思いつつ、いざ生まれ変わると考えた場合「金持ちの猫だったら」「大切に育ててくれる犬だったら」等等、「好条件であれば犬猫がいいけど、そうでは無ければ確率的に人間に生まれたほうがまし」この感覚に近いと思う。

これは性別に関わらず障がいの有無や人種、国籍にも言えることだけど、人はやっぱり「その立場に生まれた時点で十分優遇されている」ってことあるんだろうね。
そういう意味で、少なくとも社会人としては男性は生まれながらにして優遇されている部分はある(人生全体として、という話はまた別)
「女性優遇措置」なんて、それだけ立場が弱いという証でもあることに気づかないのだろうか。女性の立場のほうが強ければ、きっと「男性活躍推進法」なるものができるよ。

結局男が「人間と言えば『男』」であると思っている限り、一生女は見下され、女性らしさを受け入れてもらえないんだと思う。
不満も「男として生きていること」前提で(そうなると女性も同じなんだけどさ)、あくまでも「男である」のが当たり前での話。
上図にあるよう、どんなにつらくても「それでも女に生まれるよりはマシ」と、思っているのではなかろうか。

ああ、そういえば女性の別称で「まんさん」「女さん」「ま~ん(笑)」ってのはあるけど、「ち~ん(笑)」とは言わないよね。
どこまでも、叩かれ続け馬鹿にされ続けられる女性。
それなのに自殺率は男性の方が高い。

なぜ男性の自殺率が高いのか?というお話はそのうち書こうと思います。


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