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エッセイ「黙って本を読めない」

2024年3月17日、朝

 昨夜は少しおセンチな気分だった。読書をしたせいだろう。最近読んでいるのは『サピエンス全史』の下巻。下巻の前にはもちろん上巻も読んだのだが、上下で雰囲気がガラッと変わったように思うのはなぜだろう。いや、何も不思議ではない。上巻ではホモ・サピエンスが人類として唯一の種になるまでの過程から、農耕時代を経て小さな帝国としてまとまり始める時期までが書かれた。社会の形は大きく変わったが、それでも狩猟採集時代を含めて数万年かかっている。一方、下巻は「宗教という超人間的秩序」と題した章から現代までが書かれる。ほんの数千年の内に上巻で見た時代よりさらに大幅に社会の在り方も価値観も変容してしまう。読みながら「変化が速すぎてついて行けない」ような感覚に陥ったのも無理はない。

 社会に出ると「変化に適応しろ」と言われる。自然淘汰説を持ち出して「時代の変化に対応できない者は淘汰されるんだよ」と講釈垂れる上司までいる。変化に適応できない者は弱者なのだろうか。「適応障害」と診断される患者が増えているのは、弱者の増加を示すのだろうか。
 私は弱者と強者の存在そのものを否定はしない。どんな環境に置かれても上手く社会に適応する人間はいるし、彼らは間違いなく強者だ。強者がいるのだから、反対側に属する人間を弱者と呼んでも問題はないだろう。変化が大の苦手な私は確実に弱者だ。それは認めるが、今の時代では「弱者」こそ生き物として正常なのではないかと思ってしまう。

 今の私にとって最もしんどいのは、「正解」なんて分からないのに人間として「完璧」であることを求める世の中の声だ。大勢の人間が共通の倫理観を持ち始めたのはせいぜいここ100年程度の話でまだ未成熟なのに、誰かのたった一度の失敗を認めない。「多様性」という言葉で「正解のない世の中」になるはずなのに、不確かな「正解」を「正義」と誤認し衝突しあう人々。こんな社会に「適応」できる人間が果たしてどれだけいるのだろう。「適応」できない(もしくは「適応」しない)方が自然なのではないだろうか。
 一度出来上がった社会はその機能を失うまで進み続けるしかない。つまり変化を止めることはできない。人間は社会の歯車となることでしか生きてこれなかったし、それは今もこの先も変わらない。しかし現代はあまりにも変化が速い上に混沌としすぎている。どこかで見た「社会の歯車にさえなれない人々」という表現は、まさに現代の「弱者」を表しているように思う。この社会に適応することを諦めた人々を。

 『サピエンス全史(下)』にこんな一節がある。
 ――彼らは学ぶことを拒否した。彼らはしだいにふさぎ込むようになり、子供をもうけるのをやめ、生きる意欲をすっかり失い、ついには科学と進歩の近代世界からの唯一の逃げ道、すなわち死を選んだ――
 ヨーロッパによる植民地支配が拡大する時代、変化を強制されたタスマニア人の最期についての記述だ。現代社会の「変化」は暴力的ではないかもしれない。非人間扱いされた彼らと、人権に守られた我々を同列には語れない。それでも私は最期のタスマニア人にシンパシーを感じてしまう。
 逃げ出したくなる社会の中で、どう生きていけば良いのだろうか。その答えは残念ながらこれまでの歴史の中には見つけられそうにない。いつの日か我々が答えになった時、社会はどんな形で回っているのだろうか。

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