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大和名所図会 巻二

この note では『大和名所図会』の挿絵ページを翻刻します。本文ページは大正時代の活字版があるのでそちらを参照してみてくださいね。👀 → 国立国会図書館デジタルコレクション『大日本名所図会 第1輯 第3編』(大正8年)

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会2』 4/49

八重やゑさくら
古今
 古郷となりにし ならの都にも
   色はかはらず 花は咲けり
        ならの御門 御歌 

※ 「古今」は、古今和歌集。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会2』 7/49

八重やゑさくら
沙石集に云、八重櫻は 東円とうゑん堂のまへにあり。あるか いはく、延宝の頃まで 此所に八重櫻ありけるが、今 山桜一株あり。これも古木にはあらずとなん。

一条院の御時、ならのみやこの八重櫻を人のたてまつりけるを、御まへに侍りけるば、其花をたまはりて歌よめとおほせたればよめる。
詞花集
 いにしへの ならのみやこの八重櫻
   けふ九重ににほひぬるかな  伊大輔

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会2』 5/49

新千載
佐保過て ならの手向に をくぬさ
  妹にあひみん しるし也けり
            聖武天皇

※ 「新千載」は、新千載せんざい和歌集。
※ 「なら」は、奈良ならやまのこと。現在の鴻ノ池運動公園周辺の佐保さほやま黒髪くろかみやまなどの総称になるそうです。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会2』 8/49

朝香山

※ 挿絵では、朝香山のふもとに大乗院が見えます。現在は名勝旧大乗院庭園と奈良ホテルになっています。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会2』 11/49

大乗院だいじやうゐん
舊跡幽考曰、伝人聞大乗院は、堀川院の御宇 寛治元年二月に造立し給ふ。本願は隆禅大僧都申き。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会2』 9/49

興福寺こうふくじ

※ 挿絵の中央に、興福寺の五重塔が見えます。右下の大きな池は、猿沢池さるさわいけです。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会2』 6/49

興福寺こうふくじ
南都なんとにあり。一名、山階寺やましなでらといふ。いにしへ大織冠たいしよくわん鎌子かまこの大臣山城國宇治郡うぢのこほり小野郷をのゝがう山階やましなさと陶原すへはらの家に居住し給ひし時、此 ほとり造営ざうゑいありしより、山階寺となづけられし也。
  (略)
元明げんみやう 天皇 和銅わどう三年、春日かすがの地にうつしかへられ、淡海たんかいこう造営ざうゑいありて、もとの名を改め、興福寺こうふくじがうし給ひぬ。春日の 神宮寺じんぐうじとして、春日寺かすがでらともいふ。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会2』 10/49

※ 挿絵の右下は平城宮跡、中央奥には(左から)一り一里塚つか、雲井坂、みとりみとりい池いけ、轟橋ゞろきばしが見えます。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会2』 13/49

猿沢池さるさはのいけ
興福寺の南のほとりにあり。天竺の■[犭+弥] ■[犭+候] 池をうつしけるより、此名ありとぞ。猿墳松さるつかのまつ池 邊にあり。猿沢の名により造るなるべし。

轟橋とゞろきのはし
東大興福寺の中間、押明の門の南にあり。

雲井くもゐさか
とゞろきの端の北にあり。

Photo by mominaina
Photo by mominaina
出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会2』 12/49

たきゞのう
紀事に曰
南大門に於て、薪の能のはじまりは、興福寺 二月きさらぎ法会ほうゑ夜陰よいんなれば 寺僧じそう 春寒しゆんかんたへずして、門前に於て 薪を たき、其 ひかりついて、俳優はいゆうをなし、長夜ちやうやたはむれ とす。其後、四座よざさる楽、これを物む。二月七日より十四日に至る。芝生しばふに 紙を敷て、雨のる事をためす。若、紙を湿ざる時は、はじむるなり。此時、若宮にて能あり。九月十日の両日、四座かはる/\相勤る也。

舞うて出る 采女やそこの 柳より
             凉袋

※ 「凉袋」は、江戸時代中期の俳人、建部たけべ綾足あやたり。凉袋は別号。凉袋凉袋

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会2』 14/49

奈良ならさか
般若路はんにやぢ 酒野さかや在家ざいけ

万葉
あを丹吉によし ならのおほぢは ゆきよけど
  此山道は ゆきあはしけり
           宅守

※ 「宅守」は、中臣宅守なかとみのやかもり。万葉歌人。
※ 「あを丹吉によしならのおほぢはゆきよけど此山道はゆきあはしけり」は、あをによし奈良の大路おおじけどこの山道やまみちしかりけり。

奥にみえる町は郡山
旅人に声をかける駕籠かき
出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会2』 18/49

奈良なら
南都北の入口をいふ。此町を奈良坂村ともなづく。

般若野はんにやの
奈良坂より佐保川の石橋までをいふ。又、般若路はんにやぢともなづく。
平家物語云、南都にも老少きらはず、七千余人、なら坂、般若路はんにやぢ、二ヶ所の道をほり切、掻楯かいたて逆茂木さかもぎを引て、待うけたり。去程に、平家は四万余、騎を二手に分て、奈良坂、般若路、二ヶ所の城郭に押寄ると云云。

※ 「楯《かいたて》」は、陣地に敵の矢を防ぐために、かきのようにたえを立てて並べたもののこと。
※ 「逆茂木さかもぎ」は、敵の侵入を防ぐために、先端を鋭くとがらせた木の枝を並べて結び合わせたさくのこと。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会2』 15/49

般若寺はんにやじ
般若寺町 東側にあり。聖武帝の御建立にして勅書の大般若経を地底ちていに納め、其上に十三重の塔を立給ひしより、般若寺と称す。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会2』 16/49

ならのさらし場

※ 奥に見える山は春日山、その手前が若草山。右上には、二月堂と大仏殿が見えます。

左奥に見えるのは いもり山
中央奥は わかくさ山
出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会2』 17/49

続 ●● 百番歌合
佐保川
水上に このみはかけき 佐保川の
  すゑの藤波 なみたくたすな

※ 「藤波」は、藤の花房のこと。藤の花房が風になびくさまが、波の打ち寄せるような動きであることから。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会2』 13/49

佐保さほ
今在家町、轉蓋てんかいすじに至る往還に石橋あり。此 下流をいふ。水源は春日山、鶯瀧よりながれて、南都なんとの西に至り、末は添下郡に入。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会2』 20/49

善城よしきでら

※ 「善城よしきでら」は、奈良坂(般若寺越)の頂にあった寺のこと。北明山善城寺(禅定寺ぜんじようじ)。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会2』 18/49

善城寺ぜんじやうじ
奈良坂村 西側にあり。又、作 禅定寺。いにしへは、東大寺乾の一院也。礎石そせき、今多く残れり。今林小路町、霊岸れいがん院のまつとなる。本尊に 弥陀釋迦茉師を安置す。共に、雲慶うんけい康慶かうけいの両作、又、茉師佛一軀、春日佛師 稽文會の作。今一村の草堂として祈祷所となる。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会2』 21/49

眉間寺みけんじ
多門山は、松永久秀の城跡也。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会2』 19/49

眉間寺みけんじ
同所にあり。佐保山と号す。律宗にして、聖武帝の御願也。長寛年中、村上帝の御宇、化人現れ、眉間みけんより光明を放つ事、半時はんじばかりにして、化す其行に舎利二粒あり。それより勅して、此号を賜ふ。いにしへは眺望寺てうぼうじといふ。開基は行階僧都也。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会2』 24/49

鳥声兆故國 春色是他郷

花の陰 楓に似たる 旅寝かな
           はせを

※ 挿絵の旅館は、「やまとや」と染められた暖簾がかかっています。
※ 「はせを」は、芭蕉ばしょう。松尾芭蕉。

大人三人を乗せてゆく馬
馬子に下ろしてもらう男
馬から下りて背伸びをする男
出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会2』 25/49

元興寺ぐわんごうじ 御霊社
うつくしい をんなをにと きく物を
  元興寺がごじにかまそ といふは てら
           蕣福

※ 「元興寺がごじ」は、元興寺にまつわる鬼のこと。がごじ、がごぜ。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『百鬼夜行 3巻拾遺3巻 [1]
元興寺(がごぜ)
出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会2』 23/49

元興寺ぐわんごうじ
日本紀に曰、推古天皇四年に 聖徳しやうとく 太子、守屋を討て、飛鳥あすか地に 此寺を草創し給ふ。初めは、法興寺といふ。玉林抄云、四門の額は南に元興寺、北に法満寺、東に飛鳥寺、西に法興寺とかけられたり。いにしへは、伽藍がらん魏々ぎゝたり。今はをとろえて、五重塔に大日如来を安置す。又、一宇に観世音をすへられたり。此、観音の像は、長谷はせの本尊を作りし 霊木れいぼくのきれにて 彫刻てうこくしぬれば、長谷はせにまうでる人は、まづ 此 観音に もうで、萬の事を願ひ、其後長谷へまいれば、事の叶ふよし、御順礼記に見へたり。昔、此塔に鬼の棲ける由、いひ伝へたり。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会2』 26/49

続後拾遺
春日のゝ 若紫は焼と みへるゝに
   下もへ渡る 春の早蕨
           大納言公實

※ 「続後拾遺」は、続後拾遺和歌集。
※ 「大納言公實」は、藤原公実ふこわらのきんざね

蕨(わらび)を摘む女たち
出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会2』 29/49

不退寺ふたいじ

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会2』 28/49

不退寺ふたいじ
不退寺村にあり。在原業平なりひらの草創にして、平城へいぜい天皇の住給ひし宮の御跡也といへり。業平自■しぐい [■は尺+皿] の影に、陽成院宸翰しんかん御賛ごさんあり。其文に曰、右近衛権中将在原朝臣者、平城へいぜい天皇の玄孫げんそん、阿保親王の五男也。元慶第四暦難■なんむん [■は宀+眉+八] 廿八日行年五十六卒。

大かたは 月をもめでじ 是ぞ此
  つもれば 人の老となるもの

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会2』 30/49

金絲細々垂香餌
錦鯉悠々弄直釣
きんしさい/\としてたれ にほいのゑを
きんりいう/\としてもてあそぶ すぐなるつりばりを

浪悠に つりのいとふく 秋の風
             蕪村

網で魚を獲る子どもたち
釣り糸を垂らす老人
足もとには細々とした道具類が見えます
出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会2』 31/49

法華寺ほつけじ

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会2』 28/49

法華寺ほつけじ
法華寺村にあり。律宗りつしうにして、あま國分寺こくぶんじと申也。往昔そのかみ淡海たんかいこう旧宅きうたくたりしを、光明皇后、此寺を草創し給ふ。又の説は、栄花ゑいくは物語ものがたり うたかひの巻に、左大臣正二位藤原朝臣道長みちなが公、雲山浄土釈迦しやか尊の前にむかひて申給ふ詞に、淡海公 興福寺、法華寺を建立と見へたり。抑其もとを尋れば、聖武帝、東大寺、御造営ぞうゑいまし/\て、内陣に女身を もうでさせ給はざりしかば、きさきまた、此寺を建立し給ひて、男を詣させ給ふ事なしといふ。今、公卿の尼公、御住職し給ふ。脇寺多し。埴土はにもつさき高麗こまいぬを作りて賣也。此所 名産めいさんとぞ。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会2』 32/49

玉葉
春日野に まだうらわかい さいたづま
   つまこもるとも いふ人やなき
    常盤井入道 前太政大臣

※ 「玉葉」は、玉葉和歌集。
※ 「さいたづま」は、虎杖いたどりの別名。または、春に萌えでた若草一般のこと。
※ 「常盤井入道」は、西園寺さいおんじ実氏さねうじのこと。

幼い子どもを篭にいれて
天秤ぼうでかつぐお父さん

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会2』 33/49

海龍かいりう王寺わうじ

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会2』 28/49

海龍かいりう王寺わうじ
法華寺の東北の方也。律宗。天平てんぴやう 三年、光明皇后の建立。又曰、玄昉僧正の草創さう/\ともいふ。弘法大師も此所に止住しぢうし給ふ。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会2』 34/49

興福こうふく尼院にゐん
もとは、添下そふの郡 伏見岡の南にありしが、寛永年中、眉間寺の乾の方にうつしかへられたり事は三巻目に出たり。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会2』 37/49

忍辱山にんにくせん 裏門うらもん
当寺は、聖武帝の御願にして、本尊は阿弥陀佛、定朝の作也。延喜の頃、益信和尚、花洛よりこゝに移住し、圓成寺と号しける。文正の頃、出火にかゝりて、こと/\く けぶりとなりしを、栄弘阿闍梨再建せり。

明星水は、毎歳四月十四日より七月十八日迄 井をひらき、閼伽井とす。餘は鎖して汲す。俗に、月洗ひ水と呼ぶ。

※ 「定朝」は、平安中期の仏師  定朝じょうちょう定朝様じょうちょうようと呼ばれる和様の仏像彫刻様式の始祖。
※ 「花洛からく」は、京都のこと。
※ 「閼伽井あかい」は、仏前に供える閼伽の水をくみ取るための井のこと。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会2』 38/49

忍辱山にんにくせん 圓成寺えんじやうじ

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会2』 36/49

忍辱山にんにくせん
奈良の うしとら 二里ばかり、忍辱にんにく施村せむらになり。真言宗にして 圓成寺と號す。開基かいきは、もろこしの 虚瀧こらう和尚なり。正堂、護摩ごまだう多寶塔たほうたう昭堂せうだう寶蔵ほうざう浴室よくしつ 等あり。寺前に三橋あり。高橋、唐橋 などいふ。僧院二十四宇。幽遂いうすゐ 閑寂かんじやくなり。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会2』 39/49

蚊ばしらを けぶりの削る 夕かな
              常矩

正愛炎天暮日頽
飛蚊擾々復如雷

※ 「常矩」は、江戸時代前期の俳人、田中常矩つねのり

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会2』 40/49

菩提山ぼだいせん

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会2』 41/49

ぼだいせん 正暦寺 惣門

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会2』 47/49

菩提山ぼだいせん 正暦寺しやうりやくじ
奈良より一里半ばかり巽、椿尾村の西にあり。瀧樹院と号す。寺中四十二坊あり。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会2』 43/49

木綿きわたとり 生駒いこまの山は 雨の雲
           其角

※ 「其角」は、江戸時代前期の俳人、宝井たからい其角きかく

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会2』 44/49

帯解地蔵をびときのぢざう

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会2』 41/49

帯解地蔵をびときのぢざう
今市村にあり。俗に帯解寺といふ。本尊は地蔵菩薩。春日の作也。むかし文徳帝もんとくていきさき染殿そめとのゝ皇后、 懐胎くはいたい あつて、三十三月御誕生ましまさず。去程に醫院ゐいん両道りやうだうに術をつくし、天下の霊ぶつ霊社れいしやに奉幣を立られ、御祷をんいのり ありしかども、其 しるしさらになし。爰に春日明神、后の御夢に告させ給ふは、和州添上郡に 裙帯くんたいかたちあらはしたる 地蔵尊あり。是を ねんぜば、其 なんのがれて安からんと告させ給へり。やがて、此よしを奏聞ありしかば、みかど 叡感ゑいかんあつて急ぎ 勅使を立させ、御祈誓ありしに、程なく皇子御誕生ありし也。是則、惟仁これひと親王と仰ぎ奉り、後に 清和せいわ天皇と申奉侍、それより伽藍を御建立ありて、平産 おん よろこび の寺なればとて、帯解おびときてらがうたまはり、詣人けいじん いちをなしけるゆへに、さとを今市とぞ名づけける。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会2』 45/49

いせ物がたり
秋の夜の  千代を一夜に なずらへて
  やちよしねばや あく時のあらん
              在原中将

うかれ出て 月に見らるゝ こゝろかな
                ●夕

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会2』 46/49

在原寺 柿の本



筆者注 ●は解読できなかった文字を意味しています。新しく解読できた文字や誤字・誤読に気づいたときは適宜更新します。詳しくは「自己紹介/免責事項」をお読みください。📖