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岸田奈美さんのnoteを読んで、思い出した10年前のこと

うちの会社のスタッフが何気なくシェアしていた彼女の記事(文末)を読んだ。
初めはワクチンの話か、と読み進めていた。
昨日参加したある勉強会でも、ワクチンを打った人、打ちたいけど順番待ちの人、打たないと決めた人、それぞれがそれぞれの立場で意見交換をしていた。
どの意見も、間違ってるなんてことはない。100人いたら、100通りの正義があるように。
1つ願うのは、打たないからといって差別されるとか、打たない人は海外に行けませんとか、そういうことがない世の中であってほしいなということ。「ワクチンを打った人」「打ちたいけど順番待ちの人」「打たないと決めた人」がいたと↑で書いたけれど、そのほかにも「打ちたいけど(体調面とかで)打てない人」もいるわけだから。

さて、私がこの文章を書こうと思った動機は、ワクチンのことではない。

わたしが父と交わした最後の会話は、売り言葉に買い言葉だった。まさか病気で死ぬなんて思ってなかったので、思春期らしいくだらない勢いだけがある親子喧嘩だった。喧嘩にすらなってない。虫の居所が悪いわたしが、父に口汚く突っかかっただけだ。

これを読んだときに、ふと蘇ってきた10年前の記憶。最後まで読み、涙があふれてきた。そして、この記憶をなんとなく文章で残しておきたくなり、本当に何かに突き動かされるかの如くnoteに向かっている(本当は別の記事を初投稿にする予定だった)。

父とのこと

私の父は、ちょうど10年前の11月に亡くなった。
私の誕生日は11月なのだが、誕生日を迎えたのを見届けるかごとく、その8日後に息を引き取った。
父の入院している病院までは電車で2時間ほどの距離に住んでいた私。その日は虫の知らせか、ふだんは熟睡しているはずの朝4時に目が覚めた。
起きて15分くらい経った頃だろうか、携帯が鳴った。母だった。
当時勤めていた会社に急遽休ませてくださいと連絡を入れ、荷物も早々に家を出、駅で始発電車が動き始めるのを待った。

最速で駆け付けたつもりだったけれど、父の最期を看取ることはできなかった。

父は若年性痴呆症で亡くなった。
亡くなった年の6月に入院が決まった。それまでは週3回ほど、近所の在宅介護サービスを利用していた。
入院するほど悪化しているのか…とは、当時あまり思っていなかったような気がする。それよりも、病人とはいえ体重もしっかりある父の介護を母がひとりでしていて大変そうだったので、これで母が少し楽になるならよかったなという気持ちのほうが強かったように思う。

父がいざ入院してから担当の医師から告げられた「年は越せないかもしれません」の言葉も、そのときはまったく信じられずにいた。
ちょうど今くらいの時期だったか、父のお見舞いに行ったとき、すでに症状はかなり進行していて、父が言葉を発することが出来なくなっていた。それでもまだまだ死が近いことを受け止められていなかった私は、今思えば酷い言葉を、寝たきりの父に向かってかけてしまった。

心臓が止まったあとも、耳だけは最後まで聞こえているので、話しかけてあげてください

どうせロクに聞こえてないでしょ、と当時は思って(思うようにして)いたのだが、痴呆が進んでも聴力は最後まで残るということを後で知り、あの時の自分の言葉を思い返し、涙が止まらなくなった。

そう、あのお見舞いでかわした言葉が、父との最後になったのだ。

看取れなかったので、最後に話しかけることもかなわなかった…
そういえば、私が酷い言葉をかけたときに、ちょっと悲しそうな顔をしていたような気もして…
きっと理解していたんだろうな、と今では思う。

そんな10年前のことを思い出した、七夕の日。


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