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ぎこちない優しさをふと思い出す

妙に、ではないけど、親戚の叔母さんが亡くなった時のことを思い出す。正確には、亡くなる前のことを。亡くなった瞬間は正直はっきり覚えていない。ICUに入院する叔母さんに会いに行った。もう最後かもと、家族親戚みんな、一言ずつ声をかけた。
ああいう時、まるで演劇でもしているような気がしてくる。
「ありがとう」とかそういう気持ちを伝えたんだけど、数人の、それも久しぶりに集まった親戚たちの前で、言いたいこと、全部は言えなかった、気がする。
もちろん1人ずつ言うので、妙に演説のような、1人で芝居をしているような、、、現実のことに思えない、ある意味異質な空間だと思う。そこには、第三者の目で見ている私がいた。きっと、死を受け入れたくないからこその、現実逃避でもあるのだろう。悲しいんだけど、不思議と悲しくないというか、ぼーっとしたような、言い表せない心情。

こんなふうに、第三者目線になること、他にもごく稀にある。それは、家族が体調を崩した時だ。
ありがたいことに、健康で笑顔いっぱいの家族の姿を知っているからこそ、辛い顔を見ると、信じたくなくなる。それが風邪くらいの、すぐ治るものであっても。弱った家族の姿を、私自身が受け入れたくないのだと思う。体調を崩したのが親だったら特にそう。
気遣いの言葉も、なんだかぎこちない。「優しい言葉」だけが宙に浮いている。
普段の声かけとギャップがあることも一因だろうな。こういう時、気づく。あぁ、普段から優しくしなきゃ、優しくできてないな、と。後で反省する。

なぜ今この気持ちを思い出したのかはわからないけど、みんな元気な今この時に、「優しくできているか」の振り返りができたことはラッキーだった。
普段からちゃんと、大切な想いを言葉にして伝えられていたとしたら、こういうぎこちなさは減るだろう。
今日からまた心がけなきゃな。


読んでくれてありがとう♡