『あの子のこと』(51)「相克の家」
名残惜しそうに何度も手を握りなおす拓人さんを見送ると、私は北口の階段を下りた。
「あらゆいちゃん、早かったわね」
伯母さんがタオルを首から下げたまま、玄関まで出てきてくれた。
「伯父さんは」
「もう戦力にもなりゃしないわよ。片づけに来たんだか散らかしに来たんだか」
無意識にこわばる体をなだめすかしつつ板張りの廊下を歩くと、耳なじみの無いオーケストラの曲が聞こえてきた。
「ゆいちゃん、お早う」
居間のふすまを開けると、伯父さんは名古屋で会った時からだいぶ瞳に生気が戻っていた。
「見てよもう、大晦日にパートから急いで上がって取手からここまで来たっていうのに、この人ったらずっとこの調子で。何か言ってやってよ本当に」
「墓掃除と庭の掃除は昨日したってば」
私のアパートの敷地分はあろうかと言う一戸建てにツツジやさるすべりの木が植わる庭を、一人で片付けるのは確かに大変だ。
それにしても、部屋の惨状を見れば伯母さんの言い分もわかる。
古いレコードプレーヤーの前で時代がかったレコードを床一面にぶちまけた伯父さんは、一枚のジャケットを手に取った。
「やっぱりこの年になってもまるで分からんな……。親父が部屋に籠る時にしょっちゅう流れてたんだがね」
ブルックナー交響曲第八番/フルトヴェングラー指揮と記されたレコードは、私がこの家にいた頃に一度も見た覚えがなかった。
「母さんは父さんのレコード鑑賞だけは文句をつけなかったから、父さんがレコードをかけている間だけは僕らはビクビクせずに済んだんだ」
「はいはい分かったから早く要る分だけ段ボールにしまってよね」
呆れたようにふすまを閉めた伯母に連れられて仏間に行くと、険しい顔をした美女と線の細い文学青年然とした男性が海をバックに映った写真が置かれていた。
「お義母さんとお義父さんの宮崎新婚旅行の写真ですって」
私がこの家に来た時にはすでに祖父は他界していたし、祖母は眉間と頬に深い皺が入っていたから、言われもしなければ到底誰だか分らなかっただろう。
みずみずしい小菊と黒豆や紅白なますなどを供えられた仏壇前に手を合わせると、私は自室へと向かった。
「要らない物は燃えるものと燃えないものに分別して出して」
私はタンスに仕舞われたままの『あの』制服をえいやっと要らない物入れに押し込んだのを皮切りに、一切合切を要らない物入れの段ボールに押し込んだ。
教科書や参考書に写真の類は大学時代に捨ててしまっていたから、部屋の整理と掃除などものの十分もたたない内に終わってしまった。 今まで何をそこまでこの家に立ち寄るのを忌み嫌っていたのだろうと拍子抜けしながら自室を出て、台所で食器の分別をしている伯母さんの元に行った。
「物が捨てられない家系なのかしら……。お昼までにあのレコード類を片付けないなら私が全部捨てちゃおうかしら」
漆椀や食器を段ボールにぼんぼんと放り込みながら、伯母さんが嘆いた。
「ゆいちゃんのお部屋はもう片付いたの」
「ええ、全部捨てる気でしたから」
「あの人にゆいちゃんの爪の垢でも煎じて飲ませたいわ……」
男って本当にとため息をつきつつも、伯母さんの手は止まらない。
「そう言えば伯父さんこの前お会いした時より元気そうで安心しました」
「そうなのよ。パート仲間に相談したら、旦那さんが同じ症状の人がいて、その旦那さんも糖質と肉類をいきなり絶ったんだって。それで名古屋のおじい様のいう通り、カツオやレバーを食べさせたらちょっと回復してきたの」
「定年で急に生活リズムが変わったから、余計そうなりやすいのかもしれません。運動量もどんどん減りますし」
「そうよね。ゆいちゃんはスポーツクラブで働いてるんだから、初めからゆいちゃんに相談すれば良かったわ」
「私に出来る事でしたら何でも」
伯母さんはばんばんと食器を段ボールに突っ込んでいく。
その手を見ながら私は思わずあっと声を上げた。
「どうしたの」
輪島塗のお重一式に、マイセンのアフタヌーンティーセットを段ボールに突っ込もうとしていた伯母さんの手が止まった。
「そうだ、伯父さん仕事で英語使ってましたよね――」
「そうだけど、それがどうかしたの」
「やりようによっては片付けが伯父さんの気晴らしになるかもしれません」
「片づけられない人なのに?」
私はレコードの山に埋もれる伯父さんの元に、伯母さんを連れて行った。
ふすまを開けると、祖父が聞いていたと言うブルックナーをバックにして伯父が大学ノートの束を前にオイオイと泣いていた。
※本作はいかなる実在の団体個人とも一切関係の無いフィクションです。
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