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『孤島のキルケ』(6)

「ギルガメシュの孫の中でもとりわけ仲の良い二人の王子はの、同じさやに入った二つの豆の如くどこに行くのも一緒じゃった」
 水神は目を細めた。
「とは言え、そこは王を継ぐ血じゃからいつまでも一緒に育てる訳にもいかぬ。齢七歳にして兄王子は母や乳母に弟王子の元を離れ、『ひつじの宮』にて帝王学ていおうがくさずかる事となり、王太子となったのだ」
 しろばち山の頂から、不意に強い空っ風が吹いた。
「そうじゃ、毎日同じような景色で飽きるじゃろ。せっかくだから面白いものでも見せてやろう。さあ、目をゆっくり閉じなされ」
 私は自称水神の言う通り、静かに目を閉じた。
「体の力を全部抜いて……。そう、横になって。十、九、八……」

「何が見える?」
「少年が見えます。小さな裸婦像を大事そうに抱えて何やらつぶやいています」
「裸婦の人形の色は? 目の色は?」
「大理石のような白色に、赤紫色の目」
「そうか……。上手くいったようじゃな。主が見ている少年こそが弟王子、通称『うおの宮』。そして、その手に抱く裸婦像はイシュタルの依り代じゃ」
「主は今からイシュタルがキルケに呪いを掛ける様を見ることになる。ではワシが手を三回たたくまでそのまま目を閉じ、何が起ころうと黙っておれ」
「三、二、一……」
 
【ウルク第一王朝 第六代ウル・ヌンガル王の治下ちか
 
〈川砂さらいの男たち〉
 
「王太子殿下のお通りだ。道を開けよ!」
 川辺で浚《さら》った砂を抱えて街道を歩いている作業員たちに、近衛兵このえへいが遠くから怒鳴る。
「ちっ、邪魔くせえな羊の宮。いつまで王太子でいられるかもしれないくせに」
 蛙のような顔の男が、小声で悪態をついた。
「黙ってろ。殺されたいのか」
 とかげのような顔の男が、蛙のような顔の男の後頭部を押さえつけた。
 作業員たちは、土煙を上げながらイシュタル神殿の方角に急ぐ羊の宮の一団を平伏して見送った。

「羊の宮派とうおの宮派、どっちが勝つと思うか。当てた方で大麦を山分けな」
 ヤマネコのような顔をした男が歯をむき出しにして笑った。
「何でも賭け事にしやがって。そんな呑気な話じゃないんだぞ。噂通り兄弟同士で争いになれば、このウルクはめちゃくちゃだ」
 とかげのような顔の男があからさまに顔をしかめた。
「それにしたって、まさかうおの宮様がなあ……。魚の宮様ったら日がな一日川辺や森で絵や詩を作って、歌ったりしてるばかりじゃないか」
 とかげのような顔の男が首をひねった。
「あんなへなちょこのひょろガキがウルクの王なんかになったら、直ぐにウルクは滅ぼされるじゃねえか。あのご神託はやっぱり何かの間違いだったんじゃねえのか」
「まだ一応陛下がご存命だから、直ぐに王になると決まった訳じゃないだろう」
 蛙のような顔の男の歯に衣着せぬ言動を、とかげのような男がやんわりとたしなめた。
「だが、イシュタル神が魚の宮様が王位を継ぐべしとのたまった以上、いつ陛下がお隠れになってもおかしくはない。それで無くとも結構な御年だ」
 蛙のような顔の男が耳をほじりながら小声でささやいた。

「それにしてもどうしてわざわざ王太子たる兄君を差し置いて、体の弱い弟君を?」
 ヤマネコのような顔をした男は、土煙を立てながら走り去る羊の宮の一団を見送りため息をついた。
「羊の宮様は血気盛んすぎて、王になる前にお迎えが来ちまうんじゃねえのか」
 蛙のような顔の男が、皮肉気に片頬を上げた。
「だからお前は殺されたいのか。頼むから黙ってろ」
 監視員の目を気にした三人は、再び川砂をさらう作業に戻った。
 
〈イシュタル神殿にて〉
 
「王太子殿下がお見えだ! 門を開けよ」
 羊の宮の近衛兵が、雷鳴がとどろくほどの大声で呼ばわった。
「開けよと申すのが聞こえぬか!」
「明星の大神の命により、例え王太子殿下でも門内に立ち入る事まかりならぬと」
 神殿付の門兵の言葉は最後まで続かなかった。
 羊の宮の足元が、赤く染まった。
「偽の神託をろうし、ウルクの平和を乱す妖婦ようふとその手先はこの者と同じ運命をたどると知れ!」
 真っ二つになった神殿付きの門兵の亡骸なきがら一瞥いちべつすると、羊の宮は自分の背丈以上はあろうかと言う大斧おおおのを振りかぶった。
 
「王太子殿下とその手勢が、門兵を殺害し神殿内へ侵入しようとしています。どうか宮様、すぐにお逃げください。こちらへ」
 門外の異変を知らすべく、神官が一の神殿巫女の元へと飛び込んできた。
「私が直接殿下の誤解を解きにまいります。もし私がここで逃げなどすれば殿下の疑念は確信へと変わり、私は一の神殿巫女と通じて偽神託を出し謀反むほんを起こしたかどて私に仕える者たちごと粛清しゅくせいされましょう」
 うおの宮は線の細い体を震わせながらも、イシュタル像を抱きながらしっかと立ち上がって門へと歩を進めようとした。
「ならぬ!」
 動き始めた魚の宮の体が硬直した。
「主が王になるのだ。これは神託しんたくぞ。神託に背く重さを主は分かっておろう」
「私は、王になろうとは決して思いませぬ。いと高き明星の大神よ、どうかご再考くださいませ。私は王太子殿下の如き膂力りょりょくも智謀も持たぬ、ただの愚者にございます」
 魚の宮は一の神殿巫女に向かって平伏し、なで肩を震わせて泣いた。
「なぜいと高き明星の大神は、私を王になさろうとするのです。私一人の命を以って収まる事ならば、今ここで私は果てましょう」
 言うや、魚の宮は神殿から飛び降りようとした。
「神域ぞ! 死穢れまかりならぬ」
 一の神殿巫女の声が、聖なる矢の如く魚の宮を射抜いた。
 魚の宮は神殿の柱にもたれるように倒れ伏した。
 
『正門および南門陥落かんらく! 王太子殿下の軍勢は総数五十余名。現在後続隊およそ三十名が門外に集結中!』
 神殿の外から近衛兵の叫び声が聞こえてきた。
「神をおそれぬと言うか、羊の宮。何たる増上慢ぞうじょうまん
御上おかみもどうかお早くお逃げください。明星の大神の大切な玉体ぎょくたいに万一の事がありましては」
「万一なぞ無い。我は明星の大神ぞ。我が神殿を捨てて如何いかがする」
 一の神殿巫女はどっかりと腰を据えて目を閉じた。
「魚の宮を保護せよ。我は此処ここにて羊の宮を迎え入れる」
「なりませぬ。無謀すぎます」
「我はイシュタルの現身うつしみ。神託は全て神の言葉。決して死すべき者の都合で神託を曲げる事は無い」
 神官の悲鳴じみた声にも、一の神殿巫女は全く動じなかった。
「羊の宮ただ一人を通せ」
 神官は震えながら一の神殿巫女に頭を下げた。
 
「来たか、羊の宮――」
 一の神殿巫女は閉じていた目を開くと、静かに頭を上げた。
 透徹したまなざしが、正対する羊の宮に向けられた。
「誰の差し金だ。誰がそなたにうおの宮を王位にけよと言ったのだ」
 羊の宮は微動だにせず、腹の底から低い声で問うた。
「我は明星の大神の現身うつしみ。我の言葉、我の体、我の全ては明星の大神そのものであると知れ」
「真の神託だと言い張るか」
「王太子でありながら、審神者さにわの役も果たせぬとは。審神者さにわの出来ぬ王など、王とは言わぬ。大将軍がせいぜいと言ったところか」
 一の神殿巫女の言葉に、羊の宮はくるりと背を向けると大股で門に向かって歩き出した。
 
〈王宮にて〉
 
「陛下、ご聖断を!」
 イシュタル神殿を足早に去った羊の宮は、魚の宮に先を越されぬよう即座に父王の元に出向いた。
 父王は既に齢三百歳近く。
 耳も遠く目も見えぬ状態である父王を、羊の宮は王太子として長く補佐していた。
 父王に侍《はべ》る書記官は、執政にえぬ父王を廃することなく補佐に徹する羊の宮の姿をよく知っている。
「イシュタル神殿の一の神殿巫女の任を解かれませ。あの者はうおの宮の側近と共謀し、世事せじうとい魚の宮を焚き付け偽神託を出し、この国に災いをもたらそうとしております」
「あ?」
「陛下! イシュタル神殿の一の神殿巫女の」
「うう?」
「偽神託を出して、あ、しばしお待ちを!」
 父王の玉座から、湯気と臭気が立ち上った。
「陛下の服を持て」
 羊の宮は力なく侍女に声を掛けると、父王を見やってうなだれた。
 
「畏れながら申し上げます」
 長年父王に仕えた侍従長が秘めやかな声でそっと羊の宮に耳打ちをした。
 羊の宮の顔から血の毛が引いた。
「それは……」
「しかしながら、殿下もご存じの通り王の異変は風の噂となり、近隣諸国にまで伝わりつつある様子。その上イシュタル神の『神託』まで広まってしまえば、これ幸いと近隣諸国が攻め入る事は必定ひつじょうでございます」
「それは分かっておるが……。だからと言ってさすがに」
「王太子殿下の名において動くのが不都合ならば、我々有志の独断として動きます」
 侍従長じじゅうちょうの言葉に応じて、書記官が粘土板をうやうやしく羊の宮に捧げた。
「我々は、この国の安寧あんねいの為に命を捨てる所存です」
「私が許可を出すまで、しばし待て。必ず打開策はあるはずだ」
 羊の宮は粘土板に記された文官武官の名を頭に叩き込むと、粘土板を叩き割った。
 
〈神々の審問会しんもんかい
 
「さて、我が愛しイシュタルよ。流石に此度こたびの神託は見過ごすわけにはゆかぬ。ウルクの守護を主に任せたにもかかわらず、このままではウルクに内乱を引き起こすではないか」
 天空を司るいと高き神の声が、審問会場に響き渡った。
「私の統べる土地は私の物です。その民をどう扱おうが私の権限内の事」
 きらびやかな衣をまとったイシュタルは、昂然こうぜんと天に向かって胸を張った。
「それは思い違いだ。そも貴神は先王ギルガメシュの在位中にも、ウルクの民を苦しめ滅亡に追いやりかけた。貴神に統治の力があるとはとても思えぬが。大人しく『メ』を天に返されれば如何かな」
 太陽神であるシャマシュから権能の象徴たる『メ』を天に返せと言われ、イシュタルは激高した。

「たかが太陽風情ふぜいが偉そうに。そもそもお前は神でありながら人の世に毒され、ギルガメシュに入れ込んだだろ。死すべき者に振り回された、神の風上にも置けぬ小物のくせに」
「まあまあ。貴神とてギルガメシュに求婚する程あの者に入れ込んだではないか。お互いさまじゃ」
 水神エアがなだめようとして、イシュタルの怒りに火を注いだ。
「我は愛と美の女神の勤めとして、英雄に力を分けようとしただけの事」
「それで拒まれ駄々をこねてウルクに天の牡牛をって、ギルガメシュに成敗された天の牡牛の腿肉ももにくを投げつけられたのはどちらさまで?」
 太陽神シャマシュの言葉に、イシュタルはさかずきを投げつけシャマシュを罵った。

「ギルガメシュに要らぬ入れ知恵をしおってからに。ウルクのぬしは我ぞ。主などお呼びでないわ。主こそ神でありながら人の如くあの男を愛しただろう」
「ああ、愛しましたとも。生まれる前から黄泉よみの国まで、私はあの者を守ると誓った。それの何が悪い。貴神のように人を玩具おもちゃにしたのではない。老若男女問わず、私は人を愛し、人を守ると誓っているのです」
 イシュタルはシャマシュにそっぽをむいた。
 
「ところで、貴神は何故うおの宮を王にしようとするのじゃ」
 ふんっとそっぽを向くイシュタルに、水神エアが問いかけた。
「確かに、現王の命脈めいみゃくは尽きたも同然だが、王太子である羊の宮が長らく摂政職せっしょうしょくについて良くやっている。何故今更秩序を乱すような神託を出したのですか」
 シャマシュが半ば責めるようにイシュタルに問うた。
 
「何故って……。そりゃうおの宮が可愛いからに決まってるじゃない。あの子ったら産まれた時から私の依り代をずっと側に置いて、毎日毎晩話しかけてくれるのよー」
 イシュタルは先ほどまでとはころりと態度を変え、気味が悪いほどに饒舌じょうぜつになった。
「そんな事で! それなら神殿巫女しんでんみこに相手をさせれば済むではないですか」
 シャマシュは文字通り頭を抱えた。
「これだから堅物は。私は直接魚の宮ちゃんを食べたいの。ほんっとうに可愛いの。私に捧げる詩を紡ぐくちびるも、私の瞳をうっとり見つめるまなざしもたまらないんだってば。それでウルクがどうなろうが、知ったこっちゃ無いわけ」
「魚の宮を冥界めいかいの住人にする訳にも行かぬしな。まだ命脈は長い。それに人を直接神が手にする事は出来ぬじゃろ。その為に神殿巫女達もおるわけだしな」
 その言葉に、シャマシュがはじかれたようにイシュタルに向き直った。
「まさか……。聖婚の儀式の為だけに、魚の宮を王にしようと」
「だって仕方ないじゃない。あの子を死なせたくは無いし、老いぼれ王の後にあの血の匂いのする男が王位についたら、あの子の番は永遠に来ないじゃないの」
「聖婚の儀式で直接貴神が新王と体を交わすとなればいつぶりでしょうね……」
 シャマシュが天を仰いだ。

「ねえ、お父様。そう言う訳だから。とりあえず老いぼれ王は放っておいても死んじゃうけど、その前に廃太子はいたいしさせとかなきゃそのまま羊の宮の治世になるでしょ」
 イシュタルは黄金色の羽衣をひらひらさせて踊り始めた。
「すぐに老いぼれ王と羊の宮の命を奪う事だって出来るけど、一応ウルクのためにそれはダメかなって思って我慢したの。ね、偉いでしょ」
 イシュタルの軽やかな動きは雷鳴と共に止まった。

「もはや主に『メ』を持たせるわけにはいかぬ。天の牡牛を放った際に、次は無いと申したのを覚えておらぬか」
 太陽神シャマシュだけでなく、最高神たる父神からもいさめられたイシュタルは不服そうに天を見上げた。
「どうして。性愛をつかさどるのも任務のうちよ」
 イシュタルは背中から赤く燃える憤怒の羽を広げて天へと飛び上がった。
「思いあがるな! ウルクの秩序を元に戻せ。さもなくば、主の『メ』を取り上げる」
 天からの雷撃と共に、イシュタルは地へと打ち据えられた。
 
〈川砂さらいの男たち〉
 
「大変だ! うおの宮様が」
 上流の方角で川砂さらいをしていた蛙のような顔をした男が、野太い悲鳴を上げた。
「おいどうしたってんだ」
 川砂をさらう手を止めて、男達が続々と川の上流へと向かっていった。
 
「御気の毒にな」
「自害召されたか……。到底王位を狙うようなお方では無かったのに神託しんたくのせいで」
 とかげのような顔をした男が目をつぶった。
「本当に自害なのかね。どうせ羊の宮の差し金」
「だから黙れって」
 蛙のような顔をした男に皆まで言わせず、とかげのような顔をした男は辺りを素早く伺った。
「そういや今日はあいつ休みか」
「あいつはヤマネコみたいな気まぐれな奴だから。今日は休みたかったんだろ」
「あいつは結局どっちに掛けるつもりだったのかね」
「さあな」
 監督官に急き立てられるように、二人は持ち場へと戻っていった。
 
〈ヤマネコのような男〉
 
うおの宮邸は羊の宮派の火攻かこうにより焼失。魚の宮は自害。羊の宮派が全権を掌握した。よって作戦『蠍火さそりび』は中止とする。キシュへ報を急げ」
 ヤマネコのような男は街道沿いのナツメヤシ売りに小声で告げた。

「ほら、オヤジさん。飛び切りの干しナツメヤシだよ」
 ヤマネコのような男が節をつけながらナツメヤシを売り始めると、ぞろぞろと街道沿いの出店を冷やかしていた買い物客が集まってきた。
「ほい、おまけだよ」
 ナツメヤシを売りながら、ヤマネコのような男は買い物客達の立ち話に耳を澄ます。
 
「王様が崩御ほうぎょされたってのは本当かい」
「さあな……。だが、川砂さらいの言う事にゃ、うおの宮様は川でお亡くなりになられたそうだ」
「やっぱり王太子殿下の差し金かねえ……」
「どうだろうな。今日の夕刻にはイシュタル神殿の神殿巫女達が処刑されるとよ。あんた、見物に行くかい」
「あれは本当に偽神託だったのかね。あれさえ無けりゃうおの宮様があんな事に成らずに済んだのに……」
 
「なあ兄ちゃん。あんたはどう思うかい」
 一人の客がヤマネコのような男に話しかけた。
「何はともあれ、これでギルガメシュ王の時のようにウルク中が無茶苦茶になる事は無くなったんじゃないのかね」
 ヤマネコのような男の返答に、客は大きくうなずいた。
「そうさね……。うおの宮様にはおいたわしい限りだが、宮様がご存命の限り火種は消せぬものな」
「それにしても、イシュタル神殿の巫女が偽神託なぞ出すものかね」
「そう言う事にでもせにゃ、イシュタル神の顔が立たぬわ」
 どういう事だと首をかしげる小太りの男に、事情通を気取る猫背の老人が声を掛けた。

「ギルガメシュ王の時も、イシュタル神はギルガメシュ王に拒まれウルク中をめちゃくちゃにしたと言うだろう。大方魚の宮様と聖婚の儀式でもしたくて、魚の宮様を王位につけようとしたんじゃないのかね」
「それじゃ、日暮れに処刑される巫女達は死に損じゃねえか!」
 若いやせぎすの男がナツメヤシを吹き出しながら叫んだ。
「そうでもしなけりゃ、秩序が保たれぬわ。魚の宮様の命を奪ったに等しい神託だ。人柱ひとばしらもそりゃ多く要るだろうよ」
 猫背の老人が宥めたが、若いやせぎすの男は収まらなかった。
「全ての元凶はイシュタルじゃねえか。あんなのが神なんて!」
「兄ちゃん。そのぐらいにしとけ」
 ヤマネコのような男の声が不意に硬くなった。
 若い男は辺りをちらと見わたし、それきり押し黙った。
 
〈日暮れの王宮広場前にて〉
 
「ほう、アレが一の神殿巫女かいな」
「さすがに他の巫女とは腹のすわりが違うわいな」
 簡素な衣に縄を掛けられてウルクの市中を引き回された巫女達の一団に、りんとして直立する一の神殿巫女の姿は有った。
「あれがキシュと通じ内乱を誘発し、ウルクを滅ぼそうとした妖女とは。人は見かけによらぬものだわ」
「それじゃ、魚の宮様は此度こたび謀反むほんには無関係だとでも?」
「さっき、王宮付の侍女じじょの姪からそう聞いたぞ。うおの宮は利用されただけだと」
「それじゃ完全な死に損じゃねえか。ああ、嫌だ」
「いやいや、魚の宮様は自分が火種になる事を悟って、ウルクの安寧あんねいの為に自ら命を絶たれたそうだ。おいたわしい」
 
 ヤマネコのような顔の男は群衆に紛れて、羊の宮がどのような情報を民衆に流しているかを聞いていた。
『うちのキシュのせいにすれば、民衆に親しまれた魚の宮殺しの疑惑から逃れられる。神殿巫女が偽神託を出した事にすれば、イシュタル信仰でまとまったウルクの民が大きく揺らぐ事も無い。確かにここらが落としどころだろうな……』
 ウルクの情勢不安に乗じてウルクを攻める絵図を描いていたヤマネコのような顔の男は、自身の作戦を羊の宮に先んじて利用された事を悟った。
 
 今か今かと石を片手にうずうずとした大群衆は、新たなる一の神殿巫女をつま先立ちしながら待った。
 大群衆の興奮が暴動へと変わりかけたその時、暴れ始めた群衆を雷鳴が打った。
 
「静まれ! 我はイシュタル。明星の大神なるぞ」
 新たなる一の神殿巫女の姿は見当たらなかった。
 鈴の音のようでありながらも良く通る、威厳いげんに満ちた若い女の声が広場中に響き渡った。
「皆の物、石を置け」
 庶民には縁遠い神殿巫女達に、神の許しの元に石を投げていたぶりつくすのを楽しみにしていた群衆たちがどよめいた。
 
「一の神殿巫女以外の巫女達は、一の神殿巫女の処刑後に競りに掛けるが良い。彼女達の力は既に無い。ただの見目の良い若い女だ、競り落とした者の好きに扱え」
 群衆はざわつきながら、腰に縄を打たれた巫女達をじろじろと眺めまわした。
 
「さて、一の神殿巫女には世の終りまで命を与える。それが罰だ」
 石打ちか逆剥さかはぎか火刑になると思ってワクワクしていた群衆が、刑の内容に不服の声を上げ始めた。
「一の神殿巫女としての権能を今ここで剝奪はくだつする。これ以降、お前はキルケと名を名乗れ。裏切り者のキルケ。神の名をかたった大罪人キルケ。魚の宮を死に追いやった妖婦ようふキルケ」
 再びの雷鳴と共に、群衆が静まり返った。
 一の神殿巫女は身じろぎも弁明も、泣き叫ぶ事もなく、地面に平伏していた。
 
「この者が我を裏切ったのは初めてではない」
 よいの明星が輝き始めた空に、イシュタルの声が響き渡った。
「キルケよ。お前は明星の大神イシュタルの美貌を己と比べた。我の名の元に、我を介さず男と野合やごうした。そしてついに遂に他国キシュ通牒つうちょうし、我の名をかたり偽神託を出してウルクを滅ぼそうとした」
 群衆が再びざわめき始めた。
「お前には世の終わりまで命を与える。お前は全てを忘れ、その命続く限り己を愚かで醜いと嘆き悔み、一人寂しさにさいなまされ、決して叶わぬ愛を乞い続けよ。お前はすべての女がうらや美貌びぼう肢体したいを持ちながら、決して誰にも愛されぬ。そのくせ目にする男全てを狂おしいほど欲し、全ての男に拒絶されるのだ。そして愛を得られぬまま体だけを男に与え続ける。それがお前の定めだ。良いな」
 一の神殿巫女改めキルケは泣く事も叫ぶことも無く、平伏したままだった。
「主はウルクの敵ぞ。二度とウルクの地は踏ませぬ」
 輝く宵の明星の方角からぬっと巨大な手が現れた。
 群衆が叫ぶ間もなくキルケの体が持ち上がり、虚空へと消えた。
 
【しろばち山の中腹にて】
 
「目を開けよ」
 三度手を叩く音と共に、私は目を開けた。
 長い時間が立っていたように思うが、湧水も、腹を出して寝るとむも、日差しの色も変わりなかった。
「こうしてキルケは西の海へ投げ捨てられたのじゃ。ワシが出来る事と言ったら海に投げ込まれたキルケを、イシュタルの目の届かぬ西の小島へ送り届けてやるぐらいだった」
 自称水神はため息交じりにつぶやいた。
 
「全てを忘れるとは言ったものの、イシュタルから神殿巫女として分け与えられた力は幾分残ったままで、呪いの力も相まって、通じた男を獣に変えるようになった」
「男を獣に変えるのは、やはりいしゅたるの力が由来なのですね」
「そうじゃ。イシュタルはとにかく何でも欲しがるし、自分が言い寄った男に袖にされるのが一等しゃくさわるのだ。だからきっぱりと断れば断るほど非道な仕打ちが待っておる。その力の一分を持ったきるけえにしても同じこと。つまりだ」
 近くの大木に雷が落ち、地面が揺れた。
「キルケに優しく接しつつ誘いに乗らない事が絶対条件だ」
 私は雷に身をすくめながらうなずいた。
 
「それから必ず水筒の水をこまめに飲んでおけ。呪い除けの清めになるから特に飲食の前後にはこの水を飲むと良いだろう。水は常に満たしてやるからここにはもう来ずとも良いぞ」
 私は水筒を大事そうに押し頂いた。
 どうやら本当に水神様のようらしいと感じた私は、深くお辞儀をし直した。
「ワシはイシュタルの呪いを打ち破る力はもうないが、キルケの力はその水で幾ばくかは抑えることは出来るでな」
 それだけ言うと、自称水神は綿菓子が水に溶けるかのように雷雨の中に消えていった。

※本作はいかなる実在の団体個人とも一切関係の無いフィクションです。

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