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陰翳礼讃を礼讃するまで 2

大学院生の私は陰翳礼讃を礼讃出来るのか

前回からの続きです。

大学を卒業して、次に向かったのが大学院。
このとき、私はこんな何もできない自分のまま卒業して何者かになれるんだろうかと、散々悩んだ挙句、締め切りギリギリで大学院への進学を決意します。
今思うと、そもそも大学卒業したてのペーペーが突然何者かになれるわけもないので、恐れず社会に飛び出せばよかったようにも思います。


が、そこで改めて「陰翳礼讃」に出会います。
デザインしているとそれだけタイミングがあるってことでしょうか。

京都の東山花灯籠という企画に作品を提出することになった私は、図らずも明かりというものを自らプロデュース(そんな大層なことではない)することになります。

そして明かりというと、当然すぐにこの本に結びつくわけです。
恩師の言葉をずっと引っ掛けて過ごしてるわけですから。



改めて読む。


数年経ってから読んでも素晴らしい観察と気付き、そして表現です。
その影響もあってか以前にも増して神社や寺なんかにも足を運ぶようになり、未熟なりにもその美意識を体感したような気になっていました。


陰影の奥深さをまだまだ理解出来ていないながらも、こういう意識を享受出来る生活なんて、さぞ慎ましやかで美しく、素敵なんだろうなと憧れました。


しかし、読み進める中でのあの違和感。やっぱりあるんですね。その違和感が何に起因しているかというと、作中の所々に出てくる「まあ仕方ないよね」というニュアンスの同氏の諦めの言葉。
確固たる美意識と圧倒的な表現の後、不意に出てきて、一気に現実世界に引き戻してくる。
陰翳を礼讃するシーンと、西洋文明に懐疑的なシーン、そしてハッとする諦め。

今さらながらに、この煮え切らない感じ。
何故こんな書き方するんだろうか。となんとなく根本的な事を意識してみる。


ここでやっと、私はこれが書かれた昭和初期からのことなんかも調べてみるわけです。大きな時代の変化と成長。この時、世間というものはいかがなものであったのか。
冒頭に書いたんですが、発表当時は否定的な意見もたくさんあったんですよね。


いつまでもそんな古い考え方にしがみついていると日本は取り残されてしまうのだ。
日本の未来を見据え、良いものや便利なものはどんどん取り込んでいかなければ、時代に置いて行かれてしまうぞ!

既に地位を確立していた同氏ですので、現代ほどとはいいませんが、もっと顕著に批判した人がいたことは想像に易い。

プロダクトデザインを学ぶため大学院に進んだ私は、デザインと社会の接点や、それが生活にもたらすべきは影響など、一層意識をもって勉強している時期でした。
なのでこの世論と、そしてそれを嘆く谷崎氏のなんとも言えない「諦め」に、今度は見て見ぬふりが出来なかったのです。


確実に以前とは別の角度から読み進める自分に気付き、あぁ、恩師が言いたかった変化とはこういう意味なのか。
と、ふと思うのでした。


とはいえ、学生の私からしてみればあくまで作中の現実感。本当に自分ごととしてこの現実感を体験するのは、この後、社会に出てからです。

学生時代と言えば何をおいてもコンセプト。人に言語化してもらって初めて気付いたような、そんな頼りない美しさの捉え方でしたが、それを大切に明かりの制作に取り組みます。
正確に言えばそれしか出来なかったのですが、当時の自分の精一杯で制作に挑むのでした。

自分の思う美しさ。それを形にしなければ。
それをぐるぐると考えて、東山花灯籠の為に掲げた明かりのテーマは「呼吸」。


生きるために必死に鳴く虫は、危険を感じれば生きるために押し黙る。
どちらかだけではその存在も危ういもの。
鳴いている様、そして押し黙る様の美しさを明かりで表現出来れば。そう決意するのでした。
なんだかやや無理やりな感じも否めませんが、当時の私は

「我ながらええコンセプトやん、これ」

と、なんとなく自分の感性を信じて進めそうな納得感を得て進めます。
簡単に言ってしまえば普段は緩やかに明滅を繰り返し、近寄ればセンサーが反応して消えるって事なんですが。


やりたい事は決まったものの、電気の知識なんて一切なし。
ましてやそんな回路を組むような点灯方法を理解できる訳もなく、試行錯誤の日々。
何度、日本橋(関西で電気のことと言えばここ!)のお兄さんに聞きに行ったことか。


大学内では金工室をほぼ独占化し、毎日そこにこもりきり。
夜通し制作を続けておりました。

作品の展示、東山花灯籠の開催は当然、夜。
暗闇でのセンサーの感度が大事なんですが、それがどうにも上手くいかない。

電気を消した部屋の中で、電球の光に煌々と照らされて眠気もピーク。
その上、ここはやたら寒いし、お腹はめちゃめちゃ減る。
気分転換に外を歩こうにも、夜の校舎はなんか気味悪いし、缶コーヒーを飲もうにも材料の買い過ぎでお財布はすっからかん、、。
芸大生あるあるですね。


とりあえず、寒さをしのぐ為にプチプチ(緩衝材)を全身に纏い一息。
ふと目をやった薄暗がりの部屋の奥、扉の影が他より濃く落ちた箇所があることに気付きます。
なにやらざらついた闇。
それを目を擦ったり、細めたりして見ていた時、、



あれ、、これってなんか、、


それは夜道の闇などとは何処か違った物質であって、たとえば一と粒一と粒が虹色のかゞやきを持った、細かい灰に似た微粒子が充満しているもののように見えた。
私はそれが眼の中へ這入り込みはしないかと思って、覚えず眼瞼をしばだゝいた。
陰翳礼讃/谷崎潤一郎


それはもう、連日制作を続けた疲れが見せただけかも知れません。
しかし、それは思い出されました。

いつもと違う闇。
影が闇を炙り出しているかのような不思議なざらざら。
そして何かがその奥にしーんと鈍く光っている。
その光景が私の思考を占領しました。



、、、



私はそれを見失わないように、じっと見つめ続けます。綺麗なような、、不思議な感覚。そして、見つめ続けている間は無くならないようです。

もちろん、影や闇という物体が在るわけではないのですが、手を伸ばせば触れられそうな実在感があります。あの美しいものは、今見えているこの瞬間に手が届けば、混ぜることが出来るかも知れない。

もう少し近くで見てみよう。

私はなんとなく空気が混ざらないように、じりじりと、ゆっくりとそれに向かって行く。

もうちょっと、もうちょっと、、


瞬間。
フッ、、


「センサー反応するんかーい」





同時に疲れ切った私の思考も完全消灯し、もう全部明日にしようとそのまま金工室の床で力尽きます。



結局、本番までに自分の理想的な方法で点灯させることはできず、コンセプトだけがいい私の明かりは、ここにいるぞ寄って来いと、夜の闇の中コンセプトと真逆の主張をし続けるのでした。


続く






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