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陰翳礼讃を礼讃するまで 4(完結)

前回からの続きです

社会人の私は陰翳礼讃を礼讃出来るのか

陰翳礼讃を通して谷崎潤一郎という人物に興味を持った私は、いわゆる彼の作品群ではなく、彼のことが載っている本を読み出しました。

すると割とすぐに出てくるのが住居の話。
東京日本橋生まれの谷崎氏は1923年の関東大震災が起こるまで、横浜にて暮らしておられたが、その震災を機に関西に移り住まれました。

そしてそれ以降、何と10回以上も阪神間にて転居を繰り返しています。さらには生涯で通算40回も転居しているという引っ越し魔。

中でも神戸の「倚松庵(いしょうあん)」、京都の「潺湲亭(せんかんてい)」など気に入って暮らしておられた住居は小説などの舞台にもなっており非常に有名でございます。

ふむふむ。

これらが陰翳礼讃の作中に出てきたこだわりの住まいか、と調べていくと(実は上にあげた家は、陰翳礼讃を発表したずいぶん後に住まわれる場所なのですが)、、ほう、別棟の洋館に洋風の応接間、、、、割とモダンな感じやなぁ、、。

ちゃんと座敷、土間、茶の間はあるし、飛び石、襖や明かり障子など日本を感じさせるものも結構使われている。

ふんふん、あ!ガラス窓。
作中で試行錯誤した挙句に後悔してたやつや。
なんて、ちょっと面白がりながらその谷崎宅の間取りなんかみたりしてたわけです。

そうやって調べていくうちに、やっぱりかという半ば確信的な情報を発見します。

谷崎氏、西洋かぶれ問題

どうやら氏は関東にいた頃は、それはもう大変な西洋かぶれだったそうです。
関西に移ったのが38歳の頃なので、激しいのはそれ以前という事でしょう。
どれくらいかぶれてたかと言うと、横浜の外人街の中でも畳の部屋が全くない家を選び、西洋料理が食べたくてコックさんを雇い、極め付けには靴を脱がない椅子座生活を送っていたというから驚きです。


ただ、本人は結局生涯を通して西洋を訪問することはなく、そういう情報は世間の移り変わりや、実際に渡航した友人から仕入れていたようです。
そして、関西に移り住んで10年後の48歳の時に陰翳礼讃を執筆なさるのです。
そこで、その土地の風土や文化にあてられ、日本というものを再確認するに至ったと、大抵の説明には書いてあります。


が、ですよ、、それにしても否定的過ぎるでしょ。と私なんかは思うのです。
理由や動機は薄かったにせよ、一回ここまで好きになったものに180度態度変えられるの?と。

渡航したことないのにハマっちゃって、そういう自分が恥ずかしくて、認めたくなくて、だからこんなに否定してるんじゃないの?と、勘繰ってしまいます。

そう思うと、文士・谷崎潤一郎の名著「陰翳礼讃」は、潤ちゃんの感受性高めエッセイ「気のみ気のまま言わせてもらう也」の方がしっくりくるような気さえします。

かくして、個人的になんだか読みやすくなった陰翳礼讃なのですが、谷崎氏がこのまま日本の美意識礼讃になってることにも違和感があったのでさらに調べるのです。

われよりほかに

これは伊吹和子さんという、谷崎潤一郎氏の秘書をなさっていた方の本でございます。
「谷崎潤一郎 最後の十二年」という副題の通り、最後まで氏のそばで仕事を手伝い、その一挙手一投足を見てこられた伊吹さん。

谷崎氏の人柄、発想、仕事ぶり、ご家族のこと、そしてご本人がその人生を通して経験したことがとても鮮明に、表現豊かに描かれていて、まるでその時代を同じ場所で生きていたような、追体験が出来る素晴らしい内容の本でした。

そしてそこには、なんとこんなことが書いてあるのです。

総じて先生は、実生活では何につけても極めてモダンで、清潔で、明るく近代的であることを望んでおられた。
確かに「陰翳礼讃」には先生の美意識が凝縮されているけれども、、観念の中の美学と、実際の生活感覚とは誰しも必ず一致するものではなく、先生とてもまた、その例に漏れないのである。

これを読んだ時に、やっとあの違和感の正体を理解できたような気になったんです。
あぁそうか。谷崎氏は分かった上で、そっちの立場になりきって書き上げてみるという事をしたのか。
もちろん、過去の卑しかった自分を否定している可能性もなくはないが、あれは単なる愚痴ではなく、立ち回りを考えたちょっとした演出だったのかもしれない。

同書の中には他にも、明るすぎる真っ昼間でもペンダントライトをずっと点けていたり、とにかく扇風機を常に回したり、書斎に冷水クーラーを備え付けてみたり、しまいには、近所の寺のトイレ掃除(理想的な磨き上げられた清潔な空間にするため必要な行為だと思うのですが)が臭い臭いと怒鳴り散らしたり。
陰翳礼讃における観念の中の美学では測り得ない行動の数々が記されております。

しかし、私はむしろこれらの事を好ましくさえ思ってしまいます。
やっぱり好きなものは好きなんじゃん、というところ。そしてどんな人にも日常はごく普通で、その幸せを享受することに素直というか。
作品ほどストイックな(むしろ真逆さえあったわけですが)生活をしてないやん、というところ。

たぶんそばにいるなんて到底無理な気性の方と思ってはおりますが、そんな大先生ではない親近感を感じます。誤解を恐れずにいうと、そこに「陰翳礼讃」のハッタリというかハリボテ感の確信が見つかったような気がするのです。

そしてこのあとに続く部分が、作中私の一番好きな場面。

後年湯河原に終の住み家を新築なさった節、設計を依頼された建築家が「陰翳礼讃を読んで先生のお好みがよく分かりました、必ず御期待に添うようなお邸を造ります、安心なさって下さい」と言うもんですからね、えらく不安になっちまった、とおっしゃったことがある。

その時、私は、「その方は、タイル張りの水洗なんかとんでもない、と思っていらっしゃるでしょうから、きっと松葉か蝶の翅を敷き詰めた、ほの暗くて落ち着いたお手洗いが出来ますでしょう」と冗談を言った。

当然、松子夫人も重子夫人も、わざと大げさな悲鳴と笑い声をあげられたが、先生は冗談どろころの騒ぎではなく、「どうも困ったことになった、今からじゃあ断っても間に合わないかね」と、真顔で心配しておられた。


谷崎氏が語る陰影の捉え方、その感性と気付き。
そして、同氏が実はとても大切にしている日々の生活への便利さや快適さ、そして欲求を素直に満足させること。

簡単に言えば、谷崎潤一郎だって、新しいものや便利なものは大好きだし、実際の生活においてもそれを享受しまくりで、その生活を元にしては到底「陰翳礼讃」など出来ない環境だったわけです。

つまり、「陰翳礼讃」というのは日本人の一番表層にあった清貧や慎ましさという美徳を、その表現力を持ってして“作品化”したものなのです。
全くもって日常に落とし込めるものではないし、それを日本の心とありがたがって崇拝するものでもない。

とは言え、伊吹さんがおっしゃった「観念の中の美学」と「実際の生活感覚」という表現は、ものを作る、特にデザインを仕事にしている私にとってはあまりにも大切な考え方。
その境界を超えてしまった時、それは作品でありアートに変わってしまう可能性があるのです。


デザインを仕事にする人たちでよく話に上がるのが、そこに注ぐ思考の時間や量、その配分やバランス。それこそがデザインする人それぞれの持ち味になるのだと思います。


片方だけ、ただそれに感動するだけでは勿体無い。いや、それはもう見落としてしまっているのと同じなのだというこの気付きを、初めてこの本を手に取ったあの時の自分は予想出来たでしょうか。


恩師の言葉が蘇ります。


「正しいかどうかやないんです。さいぜん、あなたが言うたことが、この先の経験を経てどう変化していくのかを自分で確かめられるよう覚えておきなさい」


こうして、私は十数年の時を経て、「陰翳礼讃」の内容ではなく、谷崎潤一郎の在り方を、その人柄を面白おかしく礼讃するに至ったのでした。


終わり





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