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レオナルド・ディカプリオの局部とニューヨーク

アカデミー賞の授賞式が近づくこの季節。誰それがノミネートされた、というニュースを耳にする頃になると、どうしても思い出してしまう、あまり思い出したくない恥ずかしい思い出がある。

思い出したくない記憶ほど忘れられないのはなぜだろう。とりわけ、思春期の恥ずかしい思い出となるとその破壊力も格別だ。

思春期真っ只中の15歳の春、私はただただ一途にをしていた。

15歳の私はある日、当時流行っていた雑貨屋(宇宙百貨だったか?)に入った。いつもなら安くて可愛いインテリア雑貨かアクセサリーでも見て帰るのだが、何気なく有名人のブロマイド写真を揃えたコーナーにフラフラと入り込んだ。そこで運命の1枚と出会う。それを目にした瞬間、心臓が一度不自然に鼓動し、そのまま目が釘付けになった。

リバー・フェニックス

言わずと知れた国宝級…いや、世界遺産級のイケメン俳優である。

サラサラの金髪を無造作にかき上げ、上目遣いに挑戦的に睨みつけた一枚を目にした瞬間、私は恋に落ちた。

吸い寄せられるようにブロマイドを手に取り、そのままレジに向かった。芸能人のブロマイドを買ったのは初めてだった。うちに帰り、改めて眺めたが、何度見ても息が止まるほどかっこいい。私の恋心は爆上がりした。

オタク気質というのだろうか、私は興味を持った対象を徹底的に調べ上げるくせがある。今はインターネットがありネットだけでいくらでも調べられるが、当時はまだネット環境があまり整っていなかった。これまではどちらかというと奥手というか、幼趣味というか、「もののけ姫」のアシタカに恋してたような私だったが、初めて生身の男、しかも外国のイケメンを好きになった。さっそく、リバー・フェニックスとその界隈を調べ上げることにした。

本屋で映画雑誌を買ったり、レンタルDVDで出演作を片っ端から借りてきたりして、手に入る限りの資料を全部揃え、ワクワクしながら部屋に篭った。

その時買ったのは雑誌「SCREAM」だっただろうか、「リバー・フェニックス特集」なるものを組んでいた。

特集の最初のページを開き、目にした文字をみて凍りついた。


リバー・フェニックス没後…


し、死んどるやないかーい!!


愛した男は23歳の若さですでに亡くなっていた。

思いがけず恋をして、舞い上がるように嬉しくなった気持ちは、あっけなく打ち砕かれた。いや、亡くなっていようがご存命だろうが、私の人生にリバー・フェニックスが直接絡む可能性がほぼないことに変わりないのだが、会える可能性がゼロというのはまた全然違う。燃え上がった恋の炎は薄紙を燃やしたかのように一瞬で燃え尽き、あとすら残らなかった。冷めた。

買ってしまった雑誌をどうしたものかととりあえずパラパラめくっていて、開いたページに手が止まった。

デジャヴなのか?サラサラの金髪、青い目、彫りが深すぎずいかつすぎない、笑顔がキュートで中性的なルックス。どストライク。

レオナルド・ディカプリオ

のちの大スターとなるディカプリオは、当時"今が旬"の若手イケメン俳優として日本でアイドル的扱いを受けていた。そしてそのアイドル的人気に私はまんまとハマった。

調べ上げ魂に火がついた。

再度本屋とレンタルDVDショップに足を運ぶ。

ディカプリオは人気沸騰中だけあって、とりあげる雑誌も多く、映画でもいい役どころの出演が多かった。雑誌のプロフィールで生年月日をチェックし生存していることを確認。ついでに未婚であることも確認した。

映画は「ロミオ×ジュリエット」で推しとして見立てに狂いはなかったと確信し、「ギルバート・グレイブ」でイケメンであるだけでなく、演技力も兼ね備えていることに唸った。

そして、満を持して公開された「タイタニック」で震えた。

当時「タイタニック」は公開前から、期待度ナンバーワン映画として世界中で盛り上がっていた。そして公開するや、空前絶後の大ヒット映画として一大ブームを巻き起こしたのだった。

ディカプリオこそ運命の人(推し)だと思った。

生きていればどこかで会えるかもしれない、その時に、彼のことを全て知っている状態で会いたい。私は謎の使命感でリサーチを続けグッズ収集に勤しんだ。

ところが、ひとつだけ、日本にいる限りどうしても手に入らないブツがあった。

「太陽と月に背いて」という映画がある。

原題は「Total Eclipse」。ディカプリオは絶世の美男子で、新進気鋭の詩人の役。その彼が、妻子持ちの天才詩人()と恋に落ちるという衝撃の役を演じる。"破滅的な愛と魂の交感を描き出す"(wikipediaより)同性愛作品なのだが、日本ではあまり知られてない。

この映画、男性同士の濃厚なラブシーンがあり、そのラブシーンときたら、赤裸々な部分があまりにも丸出しなので日本版にはモザイクがかかっている。

が、

海外版はモザイクがない

という情報をキャッチした。

ディカプリオの"でかプリオJr."が露わになっているのか?!

15歳の私は年相応にエロ話題にも興味を持っていたが、まんま"男根"となるとさすがに引く…程度のおぼこい女子だった。

仮に別の俳優の…だったら見たくもなかったと思うのだが、(勝手に)彼の全てを知る必要がある!を信念に持った私。興味はなくても見なくてはいけないと自分に課した。

いつか海外版を入手しなくては。

そんな生涯の課題が、とてつもなく早く叶うかもしれない時がきた。

「タイタニック」公開中の春休み、家族でニューヨークに旅行にいくことになったのだ。

旅行は幼馴染みの一家と一緒に行くことになっていた。

はじめてのニューヨークである。

セントラルパークを散歩して、映画「ホームアローン2」の舞台となったおもちゃ屋「FAO Schwarz」をみたり、「メトロポリタンミュージアム」を見学したりした。とても充実した旅行だった。

ただ、私は有名な観光名所に来ても、おいしいステーキを食べていても、頭の中は海外版「太陽と月に背いて」のことでいっぱいだった。いや、ディカプリオの局部のことでいっぱいだった。

小規模ながら団体旅行なので単独行動はできない。私はお土産や食材などを買うために入るショッピングモールでダメ元でビデオが置いてないか探したが、当然見つからなかった。

ニューヨーク旅行の楽しみはもうひとつあった。旅行中にその年のアカデミー賞授賞式がリアルタイムで開催されていたのだ。当然ディカプリオも出るだろうと思っていて、同じ星の同じ国、ニアミスに近い場所にディカプリオと一緒に立てるのだと興奮していた。

アカデミー賞の仕組みを当時は知らなかったのだが、その年、ディカプリオはノミネートされていなかった

家族に訝しがられながらホテルのTVで授賞式の放送にチャンネルをあわせ、今か今かと待ち構えたものの、ディカプリオが現れることは結局一度もなかった。とにかくがっかりした。

せっかくニューヨークに来たのに。こうなったら何が何でも例のDVD(当時はVHSだったか?)は入手しなくては、と決意を固めた。

翌日、私は両親に、欲しいDVDがあると打ち明けた。映画のタイトルもジャケットも、ぱっと見ヤバくないのがありがたかった。本屋やDVDが売ってそうな店があれば立ち寄ってくれたが、目当てのブツは見つからなかった。

父に「なぜ日本で買わない?」と聞かれたが、どうにか言って濁した。

そんなことを繰り返していると、一本の映画を一生懸命探す私を見て、友人一家のお父さんやお母さんまでも一緒に探してくれていることに気がついた。

どんな映画なのか気づかれてしまう。

ここで、「もういいや」と諦めたふりをすればよかったのだが、貴重な品が手に入らないことと、あたおか娘と思われることを天秤にかけて、私はディカプリオへの愛を貫くこと即ち、後者を選択してしまった。

友達の両親に改めて「なんでわざわざアメリカで買うの?」と聞かれた。

私は開き直り、真顔で、

「海外版はモザイクがないんです。私、ディカプリオの…モザイクなしでみたいんです」(キリッ)

と答えた。

一同絶句。

友達のおばさんは、凍ったひどい空気の中で「おじさんのでよかったら、どうぞ!なんてね…」と冗談を飛ばしてくれたが誰も笑わなかった。

こうして私達一行は気まずい空気の中DVDを探し回った。売ってそうな店を全員で捜索したが、結局どこにいっても海外版「太陽と月に背いて」は見つからなかった。

お年頃ということで受け止めてくれたような雰囲気だったが、実際はドン引きしていたのではないかと思う。

そんな中私といえば、目的は達成できなかったが、全力を出した感はあった。恥もプライドも捨ててディカプリオ愛を貫いたことで奇妙に満足していた。

帰国後、一過性の恋のごとく、局部を見たいという衝動はおさまったものの、ヤバめのファンという温度感は続いていた。ちなみに、結局現在まで、、拝んでいない。

その後、ディカプリオは出演する作品でこれまでのアイドル路線(本人が嫌がったと一部で言われていたように)のイケメン役を演じなくなった。

爽やかな青年が顎髭の似合う漢に変身し、だんだんお腹まわりが立派になり、気がついた時にはかなり恰幅の良い中年になっていた。

そうしていつの日かディカプリオの痛いファンだったことは過去になった。

あれから20年以上経った今でも、ディカプリオを見るたび、アカデミー賞授賞式が近づくたび、両親や友人一家に「男の局部が見たくて仕方がない痛い娘」と思われてたいたことを思い出し、いたたまれない気持ちになるのだった。




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