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20代、自分にかけられた呪いと祝福に向き合って、うまく成仏させたなら、そこから本当の大人の人生が始まるような、そんな気がしている。

最近、「成仏」という言葉をよく使う。

小さい頃、若い頃にやってみたかったこと。言いたかったこと。
それらを我慢して心の奥の方に押し込めるのが大人だと思っていた。
けれど、実際に26歳になって、それなりに自分の心と向き合って、やってみたかったこともいろいろ体験して思うのは、自分の心の世話を自分でできるのが、本当の大人なんだろうな、ということ。
そしてそのときに、自分だけでやろうとせず、周りの力を躊躇なく借りられること。
自分の心を世話するために、他人の力を借りることも当然のように選択肢に入れること。
それが大人なんだと思った。

自分の心の中にいた、「ピアノをやってみたかった」という幼い子どもの声を聞いてあげて、自分で実際にピアノを始めてみる。
ピアノを始めるのに遅いと思われる年齢でも、どうしても弾きたい曲がゲームの曲でも、馬鹿にせず「なんとかやってみましょう」と言ってくれる先生に習う。
そうして3年ピアノを習ってみて、一生かけて弾けたらいいな、でも多分無理だろうな、くらいの曲が、弾けるようになった。
ひとつ、区切りがついた気がした。気が済んだのだ。
どれだけもう遅いと思っても、全然思うようにはいかなくても、それを始めてみる。
そうすると初めて、そこからやっと、人生が始まる気がするのだ。
これを成仏と呼んでいる。

20代、大人になるとはなんなのか、ずっと考えていた。
今のところ、条件は二つある。

・自分の心の世話を自分でできること
・人は呪いと祝福とばら撒くものだと自覚すること

小さい頃に、家族や友人、周りの人から、何気なく言われた一言が、何十年も自分の心と体にブレーキをかけることがある。
何かをするときに馬鹿にされたとか、「〇〇みたいだね」と言われたことが、ずっと心に引っかかって、好きでやりたいことのはずなのに、できなかったり、後ろめたい思いをしたりする。
これを「呪い」と呼んでいる。
20代、それは自分の中に蓄積された、呪いと向き合う時間だった。

小さい頃、僕は女の子向けのものに対して、なんとなく目を向けないようにしていた。
いわゆる女児向けアニメや、かわいいもの。
それらに興味があると知られるのは恥ずかしい気がして、なんとなく避けていた。
けれどいつの頃からか、そういうものに興味があることを自覚していった。
携帯ゲーム機の色を選ぶときも、本当はピンクがよかったけど、どうしても周りからなんて言われるかが気になって、結局ちがう色にした。
このままでは嫌だと思った。

社会人になったとき、少しいい財布を買った。
それまで何のこだわりもなく使っていた100均のものから、ちょっといい財布に切り替えて長く使おうと思ったのだ。
買い物には妹がついて来てくれた。
財布屋さんに置いてある男性向けの財布は、黒か茶色のシンプルなものばかりで、デザインもどれも似たり寄ったりの、ひどくつまらないものに見えた。
対して女性向けの財布は素晴らしかった。色も形もなんでもありで、美しいもの、可愛らしいもの、すべてが魅力的に見えた。
中でも僕は、花の刺繍が施された可愛らしい折財布を気に入った。
どうみても女性向けだった。
接客してくれた女性店員さんも、隣にいる妹に向けて「この財布かわいくていいですよね〜!」と話しかけた。
買いづらかったけど、どうしても諦めきれなくて、「女性ものの財布を男性が買われることはありますか」と店員さんに聞いてみた。
店員さんは明らかに困惑していた。
「うーん、そうですね〜女性ものの方がポケットがたくさんあるので、機能面でそちらを選ばれる方もいらっしゃいますけど〜」
と、精一杯フォローはしてくれた。
「いえ、見た目がいいなと思って」
「どなたかへのプレゼント用ですか?」
「いえ、使うのは僕なんです」
このあと店員さんが何と言ったのかは覚えていない。やっぱり困惑していたんだろうなと思う。
妹に「やっぱりこれがいいと思うんだけど、そんなに変かな」と聞いたら、「いいと思う」と言った。
妹は、僕が妙なことを言っても、特に否定せずにいてくれる人だった。
結局僕は、思い切ってその財布を買った。
財布を取り出すたび、最初は恥ずかしかったけど、やはり嬉しさと満足感の方が勝っていた。
今では「この財布かわいくない?」と女の子に見せびらかすレベルで、そういうのが平気になった。
それから何年か経って、女性向けと思われるものを買うのを躊躇しなくなった。
携帯を変える時も、ピンクにした。
絶対それが一番かわいくて、お気に入りになると思ったからだ。
だいぶ生きやすくなったと思う。
ひとつ呪いが解けたのだ。
これもひとつの成仏だった。

呪いは自分で自分にかけてしまうこともある。
ピアノを始めるのに「もう遅い」と言っていたのも、「女性向けのものを買うなんて恥ずかしい」と言っていたのも、僕自身だった。

こうやって自分の心の奥底にいる「何かを願っている自分」に向き合うのが、自分の心を自分で世話する、ということのひとつなんだと思う。

恋愛のことで悩んでいて、彼女とお互いに言葉を尽くしているのにどんどん関係が悪化していったことがあった。
心も体もめちゃくちゃになっていって、もう何もかもが悪いようにしか考えられなくなったとき、思い切ってカウンセリングを受けた。
自分に余裕がないとどんどん萎縮してしまって、変に威嚇したり、後悔したり、わけがわからなくなっていたところを、先生に話を聞いてもらって、気持ちの整理がついた。
余裕がないのは自分だけではなく、相手もなんだと気づいて、すとんと落ち着いた。

このとき「カウンセリングを受けよう」と判断できたこと、「他人の力を借りよう」と判断できたことが、大人の判断だったと思う。
自分で自分の心の世話をする、ただし、他人の力を借りることをためらわない。
他人に迷惑をかけると思って、なんでも自分でやりたくなるときがあるけど、その結果余裕がなくなって、周りに毒をばら撒いて自死することがある。
どう考えてもその方が迷惑だ。
余裕のない人同士で話しても、ろくなことがない。
そうなる前に、頼っていいと言っている人に、素直に頼る。
ピアノの先生、妹、カウンセラーの先生。
いろんな人に、ちょっとずつ頼って、立ち直っていく。
自分の心の世話を自分でできるために、「他人を頼る」という判断をいとわない。

今でも思い返してつらくなることがある。
誰かの何気ない言葉が呪いになる。
それは僕自身も、呪いをばら撒く存在であるということ。
付き合っていた彼女にはひどいことをたくさん言われたし、僕もひどいことをたくさん言った。
今でも当時言われたことを思い出してつらくなるし、彼女もそうかもしれない。
しかし彼女のひと言で、救われたこともあった。

小学生の頃、裁縫の授業で女子に玉結びができないことをからかわれて以来、裁縫が苦手だった。
玉結びという名前なのに、結ばないらしいのだ。わけがわからず、針に糸をつける段階で僕はずっと止まっていた。
それ以来ずっと裁縫が苦手だったのだが、その話を彼女にすると、「え? 結んでいいんだよ」と言われた。
「え?いいの?」
「いいよ」
となんども繰り返し言い合った。
そのあと初めて、玉結びができた。
裁縫への苦手意識は消えていた。
呪いが解けたと思った。

そういうこともあって、僕は人間を、「呪いと祝福をばら撒くもの」だと思うことにしている。
僕だってそうだ。
深く考えずに言った言葉で呪いをばら撒き、もしかしたら知らないところで、他人を救っている。
呪いは解けるまで、ずっと心の奥底でよどんだ沼のように存在し続ける。
しかし同時に、小さい頃に言われたひと言が、ずっと自分の自信を形成する祝福になることもある。
「〇〇君は計算が得意なんだね」と言われたことが大学の進路まで影響したり、入社したての頃に「へーこの仕事キレイに仕上がってるじゃん」と褒められたことが、何年経ってもいちばん得意な仕事のままだったりする。
これを祝福と呼んでいる。

他人と誠実に向き合うのは、言葉を交わさないことではない。
呪いと祝福を、トラウマと成仏を、どれも言葉でできるのが人間だと、自覚して関わることなのだ。

だから僕は、他人をなるべく言葉を尽くして褒めようとする。
相談を持ちかけられたらできる限り応えようとするし、カウンセリングや心療内科に行く抵抗が和らぐように紹介したりする。
自分の心の世話を自分でするために、他人を頼ってもいいんだとよく言っている。
自分のやってみたいことがあったら、自分でブレーキをかけてしまわないように、「どうせ僕がやってもできないだろうし…」なんて呪いをかけないように、さっさと予定を入れて一旦やってみるようにしている。

20代、自分にかけられた呪いと祝福に向き合って、うまく成仏させたなら、そこから本当の大人の人生が始まるような、そんな気がしている。

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