表紙用_

おかえり(10032字)

1/8
できるだけいつも通りに「ただいま」って言ってみて、と部長に言われてハッと気づいたのだけれど、一人暮らしをはじめてからというもの僕はただいまなんて言った記憶がなくて、いつも通りの「ただいま」の言い方が分からない。
「ただいまー」って実家に帰った感じをイメージして適当に言ってみるけど、それ本当にいつも通り? って聞かれて、そういえばたまに実家に帰ったってただいまなんて言うだろうか、いつからか、帰ってもおかえりじゃなくていらっしゃいって言われるようになってて、いらっしゃいと言われればおーくらいしか言わない、ということに気付く。
もっとよく思い出してみると、実家に帰り着く時間に家の人がいることも少ないから、僕が実家でごろごろしているところへ親や弟が帰ってきて、僕の方がおかえりといえば、家族は「おお、ただいま」と言うし、弟なんかは返事もしないで「おお兄ちゃん、いつからいんの? いつ帰るの」とか言うのだった。
だから僕にいつも通りのただいまと言われても困る。そのことを部長に伝えると、じゃあそもそもこの脚本にリアリティがないってことだよなと部長は言う。
「だって、普段ただいまって言わないんだろ? ただいまっていう日常にリアリティがないってことじゃないか」そう言ってパソコンの画面になにやら打ち込んでいる。
「いやそれはおれの場合であって、その人は普通に帰ってきたらただいまっていう人なのかもしれないじゃないですか。実家に帰れば当たり前に出迎えてくれる家族がいておかえりって言ってもらえるし、一人暮らしだろうがただいまーとか言いながらスイッチをつけるんですよきっと」
「あ、その一人暮らしだろうがただいまーとか言いながらって言ったときのただいまーってけっこう自然ぽかったよ」と部長が言うから、僕はとりあえず「どうも」と言う。部長はわりとよく人を褒める人だと思う。
「てかさ、違うんだよ、今回の脚本のこの人はお前をイメージしてあてがきしてるんだから、お前との差があっちゃダメなの。お前がただいまって普段言わないなら、この人も言わないの」
「いや、この人この人ってまだ名前も決まってないんじゃないですか。リアリティとか言うなら先に名前つけてくださいよ」
「そこなんだよな。もうお前の名前で良い?」
「はあ? まあいいですけど」
「え、じゃあ名前聞いて良い?」
「なんで覚えてないんすか」
「はは、冗談冗談」


2/8
そもそも僕はあいさつ全般をあまり重要視していなくて、ただいまどころかありがとうとかごめんなさいとかいただきますですら、最後にまともに言ったのいつだったっけ、と記憶を辿るレベルで、なんか、そう考えるとまともに生きていないというか、大学生になってからずっと漫然とただ生きているだけ、と思う。
そんなのだいたいどの学生も同じかもしれないけれど、そう、そのだいたい同じ大学生になるべく、僕はきっと多くのことをきちんとしなくなった。別にサボりたいわけでもないのにときたま講義をサボっては食堂で時間を潰したり、講義室の前まで行く癖に中に入らず廊下で座り込んで読まないでも良い本を読んでいたり。でもマイクで外まで聞こえる講義の音はちゃっかり聞いてたりして、我ながら何がしたいんだろうなって思う。
大学生活っていうモラトリアムに自分から浸りきるようなことをしては、何事も決めず、固めず、余裕ぶっていたい自分が恥ずかしいと思うこともあったが、僕はとにかく何事にも覚悟を決められなかった。
できるだけいつも通りに「ただいま」って言ってみて、なんて部長の思いつき以外の何物でもない発言一つで僕自身に興ざめしてしまう程度には、僕は自分を捉えられずにいた。
ところで。
「そもそも、部長はなんで脚本なんて書いてるんですか?」と僕は聞く。まっとうな質問だと思う。
「特に理由はない。マイブームだよ」
「マイブームですか。その割に本気ですね、リアリティとかいって」
「完全なる趣味だからじゃないか。課題は適当にこなさなくてはならない。趣味は無駄にディティールにこだわらなければならない」
「無駄にね。まあそれは良いですけど、脚本なんて書いてどうするんですか?」
「さっきの質問と何が違うの?」
「いや全然違いますよ。さっきは脚本を書いている理由を聞いたんです。今度は書いた脚本をどうするか聞いてるんです。あれ、部長って日本語のネイティブじゃないんでしっけ」
大学に来てびっくりしたのが、日本で生まれて育ったわけじゃない人が意外なほどいるということだった。日本語を後天的に身に付けたという人の存在が僕には新鮮で、その人たちの背後には僕には扱えない言語で構築された世界観があるということに、多少の憧れもあった。
「日本語の、なに? 陰性?」
「部長もしかしてネガティブと間違ってます? いやだなネガティブスピーカーって。てかネガティブと間違ったからってよく陰性がすぐ出てきましたよね。ネイティブスピーカーですよ。母国語話者」
「ボクグゴ、ワシャ?」
目を細め唇を丸くして、ワシャッとした顔をしながら部長は言う。
「あんたの予測変換機能どうなってんだよ。聞き取る能力低すぎでしょ。今のスマホの方がよっぽど聞き取れますよ。まあ、いいや。部長は生まれも育ちも日本ですか?」
「は? 当たり前だろ? 俺が日本人以外に見えるか?」
「そう聞かれるとどうでしょうね。アジア人だとあんま区別つかないし」
「てかさ、お前ちょっと言い過ぎじゃないか? 先輩だぞ一応」
部長は生粋の日本人で、その上ボキャブラリーが乏しく、耳が悪いだけだった。しかも同じ大学にいながら、僕より3年も多く通っていながら、世界観の拡がりとかを感じたことはなさそうだった。
「そもそもなんで日本人がどうとかって話になったんだよ」
「もういいです。なんか面倒くさいんで。あと脚本も多分部長には書けないし止めた方が良いです」
「なんだよなんだよ、人のことスマホより頭悪いとか日本人じゃないとか脚本書けないとか好き勝手言いやがって。後輩にこんなバカにされて、おれって一体何なんだよ。あーあーどうせ俺なんて実家がお金持ちだけが取り柄のクソ野郎だよ。裏口入学の上留年して後が無いってのにまだ働く気もおきない。自分が何をしたいのかも分からない。たかられるだけでモテるわけでもないし」
「すげえ、ネガティブスピーカーって本当にいるんすね」
「うるせえうるせえお前もどうせたかりに来たんだろ」
「たかんないですよ。おれもどっちかと言うと実家金持ちの側だし」
「そうか、辛いよなそれはそれで。こんなん言ったら不特定多数にぶん殴られそうだけど」
「そうですね。でも分かりますよ、その先輩が言ってる辛さ。それより部長、裏口入学ってほんとですか? さっき口走ってたけど。今もあるんすかそういうの」
僕は完全なる好奇心で聞いた。
「う、まあそれはさすがに嘘っていうか、普通に受験したし、多分ないと思うけどさ。よく受かれたなと思って」
「ああ」
「ああ、じゃねえよ」
「まあ、良いじゃないですか。脚本は諦めて、本来のサークル活動に戻りましょう」
「そうか? まあ、そうだな、脚本は家で書くわ」
「今日何します?」
「DVD見ながら夏合宿の打ち合わせだな」
「DVDは?」
部長は何も言わず、『袖に無花果』というタイトルのDVDを僕の目の前に突き出した。メジャーではないが、強いトラウマを残す描写が散りばめられていて一部で有名な上、クランクアップ直後にキャストやスタッフが2名死亡、1名行方不明になったらしいといういわくつきの映画だった。
僕たちオカルトサークルは夏も冬も関係なくホラーに浸り、夏は心霊スポット巡りや廃墟や空き家を利用した合宿を行っていた。


3/8
打ち合わせと言ってもそれほどすることはないのだ。管理者や持ち主がいる廃屋の場合はサークルの趣旨をきちんと話してからにすべきだと部長が言うから、否定するようなことでもなし、管理者探しや連絡先探しに付き合っているだけで、僕はほとんど部長を見ているだけだった。
誠実に許可を取ろうとすれば必ずと言ってよいほど断られる。たらい回しにされる。こういうことはこっそり勝手にやったもん勝ちみたいなところがあって、例えば役所なんかに繋がると、口では言わないけれど、そんなの許可出せるわけないでしょ、やるなら勝手に、自己責任でやってください、知らせないでください、良いですか、許可を出したということは何かあった場合こちらにも責任が伴うんです、良し悪しじゃなくて、許可を出すということは面倒なんです。そんなことも分からないんですか、これだから働いたことのない学生は、という空気が、部長が持つ携帯から漏れる微かな声からでも伝わる。
僕はそういう声に聴き耳を立ててこっそり学習する。痛みを負わずに大人になる。部長だけがこっそり傷ついてはそれを隠して、「んーやっぱ直接話した方が良いかなあ。地域の方にだけでも了解してもらえれば」などと言っている。部長だって自信がないのだ。正しいことをする自信も、間違ったことをする自信も。何をすべきか分からないのだ。僕は部長のそういうところを見ると安心した。
ほら、だからこっそりやりましょうよ。バレないっすよ、それこそバレたってバカな学生がって言われるだけでしょ。真正直に生きて馬鹿にされるくらいならバカを受け入れてこっそりバカやった方が楽しいですよ。
そんなことも言ってあげられず、僕は部長の打ち合わせに付き合うのだった。
ただ、稀にきちんと管理者がいて、サークル活動という浮ついた性質のものにも理解を示してくれたり、寛容だったりする人がいるのも事実だったし、それが安心なのも本当だった。わざわざ許可を取る部長を信頼してくれて、僕らに場所を提供してくれる人がいる。部長はそういう場所と人を二人だけ知っている。管理されているだけに危険は少ない場所で、時期によっては電気さえ通っていたりする。考えてみればその方が部員としてはありがたいのだけど、こっそり忍び込んでバカをやるという青春も、ボロボロの廃墟に備わるスリルも、損なっているような気がして、なんだかなあと思いながらも、普段はあまり部室にこないメンバー含め、合宿の出席率が高いのは、みんなが迷いっぱなしの部長を信頼しているし、部長が用意するそういう迷いのある空間が好きなんだと思う。


4/8
僕がバイトをしだしたのも、多分大学生らしさに浸るためだった。
バイト情報誌を読んでいると部長が後ろから、「なんだ、バイトか。バイトは良いけど活動に支障来すようなバイトはするなよ」などと口出ししてきた。
「うるさいっすねえ、寂しんでしょ部長」といつもの調子で軽口を叩くが部長のテンポがおかしい。振り向くと思いがけずしょんぼりした顔をして、「そうかも」と言う。不安だと言う。
僕は部長がはっきりこんなことを言うことに驚いてしまう。
働く必要はないのだった。仕送りは多く、家賃、光熱費、水道、通信費、食費を楽に賄える。だからと言って貯金ができるわけではないが、バイトの必要性はないのだった。
そういう僕の事情を知っている部長は、僕の学生として最低限社会に関わらなきゃという焦りに覚えがあるのか、バイトな、やっておいて損はないよなと言ってから、「俺が前行ってたバイト先はどうかな、常に求人出てるし、全然人足りてなかったし、お前なら即採用だと思うけど」と続けて僕の情報誌を奪い、パラパラとめくり、ほらと笑った。



5/8
その居酒屋には幽霊部員の千紗さんがいた。一学年上の千紗さんは我がサークルに所属する3人の女性メンバーの中の貴重な一人だが、合宿など大きなイベントがない限りぷらっと部室に現れることはない。そもそもオカルトサークルに専念する人は稀なのだ。たいていサークルを掛け持ちしたり、バイトやボランティア活動を並行している。千紗さんだけではなく他2名の女性メンバーも男子メンバー2名もあまり部室には来ないし、みんな幽霊部員だ。
だけどそう呼ばれるのは見た目が幽霊に似てる千紗さんだけだった。
細身。色白。長い黒髪。
例えば夏、千紗さんは白いワンピースを着る。赤い花柄をあしらったサンダルを履き、麦わら帽子なんてかぶった姿で墓参りにでも行けば、かなりそれらしく見える雰囲気だ。顔色は白というより青白く、化粧気はない。いつも半目みたいなやる気のない顔をしていて、集合写真ではよく目を瞑っている。廃墟合宿では幽霊かと思ったら千紗さんだったネタは必ずやる。千紗さんの残念そうな笑い顔は可愛くて、男子は彼女を困らせたがる。
そんな千紗さんがわりと元気に居酒屋で働いていたことも驚きだったが、部長がかつてほんの短期間でもここに在籍していたということが驚きだった。面接のとき、部長にここのこと教えてもらってと店長に話すと、とても懐かしがっている様子で、まだ学生ならまた働かないかって伝えておいてくれなんて言われるほど気に入られていた。それも意外だった。なんだあの人、ちゃんと社会に馴染めるんじゃないかと思えば、取り残されたような感覚もあり、僕も頑張ろうと思えた。
部長がバイトを辞めたのは、千紗さんに関係があると知ったのは面接日を除いたバイト初日のこと。千紗さんがハンディの使い方とかおすすめを聞かれたときにどうすれば良いかとか細かいことを教えてくれて僕の教育係みたいになっていたのだけど、仕事終わりに業務に関わらない話もした。千紗さんが演劇サークルや写真サークルも掛け持ちしていること、PS4のホラーゲームにハマっていること、合宿には行くつもりだから早めに日程を教えてほしいということ。
「あ、あと部長に生霊送るの止めてくださいって、伝えておいてくれないかな」と彼女は控えめに言った。
「は? 生霊?」
「生霊」と、仕事を終えて目に力がなくなり白い顔をしたいつも通りの彼女は、毎日毎日、部屋の窓の外に男が立っていると言う。シルエットからそれが部長に違いないと思うが確かめようがないまま窓の外に男が立つのがいつものことになってしまった。何度か夜中にチャイムがなって、スコープから廊下を覗くと誰もいないということもあったらしい。
「え、部長と千紗さんは……」
「付き合ってた、ちょっと前」
「あ、でもまだ粘着してるってことですか?」
部長が脚本を書き始めたのはそういうことなのか? と思った。加えて、千紗さんがいるバイト先に僕を送り込んだのにも、意図があったのではないかと思える。
「粘着っていうか、もう無意識なんじゃない、かな」
「生霊っていうのは、どこから出て来たんです?」
「えっと、口から、とかなんじゃないのかなあ……、ちょっと分かんないけど」
「いや生霊が身体のどこから出てくるかじゃなくて、それが生霊だっていう発想がです」
「ええと、根拠を聞かれると難しいけど、チャイムが鳴ってすぐ外見ても、いないとかあるから。それに、外で出くわしたことも、ない」
「そんな、ドア開けるの危なくないですか? バイトもこんな遅くまで危ないですよ」
でも。
千紗さんはまだサークルの合宿などには来るのだ。部長とそんなことがあったなら、なんで千紗さんはまだ活動に参加するんだろう。部長がいたバイト先にいて、活動にも参加しておいて、こういう話をする合理性の無さが不気味に感じた。そもそも生霊なんて……。
「信じてないでしょ?」
「ん、千紗さんの話をですか? 生霊の存在をですか?」
「私の話だよ。もう、流れ的にそれしかないよ」と千紗さんは笑い、それから、信じられないなら今日、私の部屋に来る? と囁く。バイト終わりの11時過ぎ。
「今日も夜、あぶないでしょ?」
このときの僕は100%健全だったとは言い切れない。



6/8
部屋に上がっても千紗さんは電気をつけない。
なんでと聞くまでもなく、窓から外を覗くため、あちら側からこちらを見られないためだった。
暗いのではっきりしなかったけど、それでも千紗さんの部屋の印象は無骨だった。さすが女の子の部屋というほど整頓されてもいなければ、物が多くごちゃごちゃしているというわけでもない。不覚にも思いだしたのは実家にいる高校生の弟の部屋だった。多少女の子らしいと言えば、小さな鏡がテーブルの上に置いてあること。PS4にハマっていると言っていたのに機体が見つからないことは少し気になったけれど、ゲーム機を収納しているところも女の子らしさなのかもしれないと思った。
僕らは男の影が見えるという窓を見張るため、窓の手前のベッド上で、並んで膝を抱えて座った。部屋の電気はつけないまま、カーテンを閉め、3センチほどの隙間を覗くともなくという体で覗く。
しばらくして千紗さんは僕に見張りを任せ、シャワーを浴びに行く。玄関横の扉がバスルームらしい。オレンジの明かりが少し漏れるのを見る。気を取り直して外を見る。音に集中を削がれるが、気にしないようにしていると次第に音が大きくなっていくような気がする。窓の外には何も起こらず、起こる気配もせず、集中力がもたない。
しばらくして、体を拭く音、服を着る音が事細かに耳に響いてきて、気づけば千紗さんの音がシルエットとなりヒタヒタと僕の方へ近づいてきていた。耳元で「ねえ、出た」と言われて僕は激しく動揺する。
「そ、のようですね」と顔を隙間から外さずに答えれば、「え、ほんと」と言って千紗さんもカーテンの隙間を覗く。
「え、あいやすみません。男は出てません」
「出たんじゃないの?」
「いや、出た? じゃなくて、出た、って報告されたのかと思って」
「なんでそんな報告、するの?」と千紗さんは笑う。
ペースを乱されていることが恥ずかしくて窓の外を凝視していると、千紗さんが僕の肩に顎を乗せるようにして「シャワー使って良いよ」というものだから僕の動揺は続く。ベッドから降りようと動き出した僕の首筋に濡れて毛先がまとまった髪が掠り、恥ずかしい痒みとなる。
僕ってこんなにちょろかったのか、と思わずにはいられない。ホームに迎えられただけで完全に女性として意識して、音、匂い、感触の生々しさに翻弄されてしまっている。
脱衣所の洗濯籠の奥に下着が埋まっていた。洗面台のコンセントにドライヤーのコードがささりっぱなしになっていた。浴室の排水溝には髪の毛を受け止めるシートが貼り付いていて、細い長い毛が見えた。身体を洗うスポンジ。千紗さんの生を見ようとする視線が止まらない。そのうち、今日が本格的に女性の身体に触れる最初の日になるかもしれないという期待が、根拠は何もないのに、押し寄せてくる。
千紗さんの身体のシルエットを思い描いたとき僕は、生霊の存在を信じた気がした。
生霊、そうだ、そのために来たのだ。千紗さんが生霊と呼ぶ男のことを思うと、スイッチが切り替わるように、千紗さんに関わる全ての、湿り気のある出来事が不気味に感じられはじめた。
シャワーを出て、下着を身に付けるとタイミングを見計らったように千紗さんが脱衣所に入ってくる。あまりにも堂々と。携帯をいじりながら歯を磨いている。薄着。白のホットパンツに上も白のティーシャツ。その上にグレーのパーカーを、前は閉じずに羽織っている。
のそのそと服を着ていると、千紗さんの携帯が鳴る。
目を細めて笑い、「ほら、生霊」と言って僕に画面を見せる。トークアプリの画面で、「部長」からスタンプが送られてきていた。ジトっとした目の青白い顔をした幽霊っぽくデフォルメされた男性の絵で、「ねえ、もう寝たの?」のセリフが入っている。
「これ生霊くん。知ってる?」スタンプの一覧を開いて僕に見せてくる。「ねえねえ、何してるの?」とか「僕のこと忘れてない?」と言った少々粘着気味なセリフを吐くスタンプらしい。
「部長こればっかり、なんだよね」と言って千紗さんは笑っている。
窓の外の生霊の話はなんだったんだと聞くまでもなく、僕は千紗さんにからかわれたのだ、いやからかわれているのだと知る。トークルームのやりとりを見る限り親しい間柄のように見えるし、よほど鈍感でなければ二人が男女関係にあることに気付かないということはない。
「ねえ、いま葉山君と一緒にいるって言って良い?」と千紗さんが僕を試すように言う。
良いはずだ。何もやましいことはしていない。それにダメだと言えば、これからやましいことを期待していることを白状するようなものだった。だからって良いと答えて良いのか。
「私の部屋って言わなかったら、大丈夫だと思わない?」
質問を重ねることで、僕は追い込まれていった。
千紗さんから目を逸らすために、僕は曖昧に声を出して、カーテンの隙間から窓の外を見た。



7/8
男が立ってこちらを見ている。
部長だった。
は、本物? 生霊? どちらか分からない。どちらでも怖い。
あれが生霊だったら千紗さんは本当のことを言っていたことになる。気味は悪いが僕にはそっちの方がマシな気がした。
あれが本物のストーキング中の部長だとしたら、僕はバイトを勧められた時点から何らかの策略にハマったことになる。部長は千紗さんの様子について、僕に探りを入れるつもりだったのかもしれない。
いやだけど二人のトークアプリのやりとりを見ると、普通に仲が良さそうだ。千紗さんは合宿にも来ると言う。とすれば、僕は二人に試されているのかもしれない。
部長が僕を信頼に足る人間なのかどうか試してる? なんで? 部長を裏切らないかどうかを試してる? 分からないことが多く、整理する時間がない。千紗さんはまだ何か話してる。もう寝よう、布団無いからベッドで、いやそれより外、あの電柱のとこ、と言えば、言ったでしょ、いつもなんだよ、信じてくれた? と言う。十秒ほど経って、チャイムが鳴る。顔を見合わせ、ベッドからゆっくり降りる。ベッドから降りるだけでなぜか少し安心したが、千紗さんが僕の腕にしがみつく。しっとりした息遣いと身体の柔らかさに血が滾るが、腰に力が入らない。
スコープを覗くと部長がいる。千紗さんの家のドアの前に、青白い顔をして立っている。
「部長……」と呟いた声が思ったより大きくて、僕はハッと口を覆う。
「隠れて」と千紗さんがまた耳元で囁く。「クローゼット」と言われて背中を押されると、僕はあっけなくリビングの方へ押しやられる。千紗さんがドアを開けようとしている。止めなければと思ったが、部長が本物である可能性を考えれば僕はいるべきじゃない。部長が何か千紗さんに危害を加えるようなことがあれば出ていけば良い。生霊であれば消えるはずだ。



8/8
「おかえり」
千紗さんの声だった。
は?
「ただいま」部長の声。とても自然な言い方だった。
「寝てた?」
「んーん、もうすぐ寝るとこだった」
混乱したままクローゼットの中にうずくまる。何が起きている。
2人は何事もない様子で話しをしている。合宿がどうこう、脚本がどうこう。親密な様子。
その後、クローゼットの中で息を詰めながら聞いたのは、驚くことに、部長の僕に対する恋情だった。また混乱した。僕が恋愛対象になってることもだが、付き合っている女性の前でこんな話。僕を夢に見るだとか、部室にあいつが来るから俺もずっと待ってるだとか、一緒に住めないかなだとか、そういう。千紗さんは「また葉山くんの話?」なんて言ってる。
人間の奥深さ、世界観の広がりをこんなときに思い知ると思わなかった。それも部長で。
混乱したまま二人の性的なやりとりも聞く。千紗さんは僕がクローゼットの中にいることを知っていて、部長とやましいことをする。そんな意地悪な音が聞こえる。結局部長は僕のことで頭がいっぱいで、最後までできない。僕の感情はどこに向かえば良い。
「あいつにさあ、おかえりって言ってやりたいんだよねおれ絶対。そういう関係が良いとか思っちゃう」と部長が言う。
「そんなに、一緒が良いんだ」
「あいつ、ただいまって言い慣れてない感じでさあ。野良猫みたいで可愛いんだよ」
「じゃあ、3人でシェアハウスは、どう? それなら、誘いやすいんじゃない? 私は葉山くん平気だよ」
「お、いいな。そういや今日あいつバイトどうだった?」
「物覚え、良いよ。店長も気に入ってた」
「シフト表見せてな。俺千紗休みであいついる日、食いに行くから」
「なんで、私いる日は来ないの?」千紗さんが笑っていること、声で分かる。
クローゼットの中。暗さ、狭さ、暑さ。
僕は変だった。呼吸が荒くなる。二人に聞こえそうで怖い。
そして苛立ち。僕はまたこうやって、姿の見えないところで聴き耳を立てている。僕が生霊みたいなもんなんじゃないか。いるだけ。生きてない。
心細く思えば、2人ならこんな僕の朧なシルエットを救い上げてくれそうだという予感や、二人が持つ不安定なスリルが、僕は好きになりそうだった。いっそ出てしまおうかと思ったが、できなかった。さすがに今は無理。
でも。シェアハウスか。うん。
部長。でも今日は僕が言いたい。
おかえりなさい。
二つの意味で。

おかえり(完)

いただいたサポートは本を買う資金にします。ありがとうございます。