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それでも世界に存在したい

「生きる」ことが普通とされる社会では、死を願うことも生きて欲しいと相手に願うことも利己的な行為であるのに、前者だけが悪とされる。


人は2度死ぬ。
その考えでいくとニーチェだって、孔子ですらまだ生きている。
けれどそんな人達はほんのひとにぎりで、ほとんどの人は何者にもなれずに肉体の死も記憶の死も直ぐに迎えてしまうから、私が死んだらこの頑張った17年もすぐに無かったことになる。
生き物って報われないね。
本当、生きる意味って何。

私は世界のどこかに私の生きた史実を刻み込みたい。
死ぬことは寂しいけれど、こんな女の子がいたんだって遺るならそれは生きた意味があったってことになると思う。
だってそうじゃん。
17年間、ほとんどの時期を死にたい気持ちと共に、いつか生きててよかったって思える日が来るってことを信じて過ごしてきた。
それがなかったことになるなんてそんなのあんまりだ。

ちょうど去年の誕生日に松戸の女子高生がしてたみたいに、私も…。
そう考えたことがなかったことがないと言えば嘘になる。
ろろちゃんも、メンヘラ神も、なかいきあかちゃんも、みんなみんな私の中の神様で、
それでも同じことをしたって私は神様になれない。
世界に遺れない。
神様は人生のバックボーンがあって初めて神様になれると思う。
わたしなんかハリボテ以下だ。

何度目かのあの時死ねばよかったを迎えて、結局今回も死なずに自殺の知識だけが増えていく。

ずっと死にたい人生の中、私が生きたいと思える日が来るのならば、それは私が私でなくなった時だ。
それは私の中の脳の中の大脳皮質の中の私の細胞が私のものでなくなった時でもある。

でも結局それは生きたままの生まれ変わりであって私は消失する。

私は“酔生”が生きた史実を世界に刻みたいんじゃない。
私が私としていきた史実を遺したいんだ。

私は早くこの世から消えたいけれど、それでも世界に存在していたい。
それが生きた意味になるから。

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