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月曜日の図書館 本物

大学受験で初めて訪れたまちの博物館で、わたしは「マラーの死」を見た。裸で、脇腹を刺されたマラーは、画面いっぱいにぐったりとうなだれている。
初めて見た実物は、ものすごく大きかった。歴史の教科書に載っていたので、どんな絵かは知っていたものの、このサイズは予想外だった。
マラーは持病の水虫のために、しょっちゅうお風呂に入っていた。その無防備なときを狙って、反対派に命を奪われたのだった。
殺された上に、水虫だったことがこんなに後の時代まで大々的に知れ渡ってしまうなんて、かわいそうな人である。

わたしが初めて見た有名な絵の本物は、モネでもピカソでもなく、水虫のおじさんの絵。

利用者が窓口で一枚の紙を見せてくる。この絵を刺繍の図案にしたいから、細部までわかるよう、もう少し大きく載っている本はないか。
全身真っ赤な服を着ている少年の絵だった。手を頭に添え、気だるげな表情でいすに座っている。

作者とタイトルがわからないことには調べられない。利用者に聞いても知らないと言う。でも、すっごく有名な絵だよ。
さしあたり、死ぬまでに見たい有名な絵100、のような本には載っていない。タッチが何だかルーベンスっぽいが、彼の画集にも載っていない。

友だちにメールで聞いてみる、というのでしばらく待つと、返事がくる。ガラケーの画面に映っていたのは、しかし予想に反して作者もタイトルも漢字だった。どうやら利用者の友だちは中国人らしいのだった。これでは日本語でどう表記されるのかわからない。

沙翁が誰なのか当てるのと同じくらいの難易度。

グーグル先生におすがりしよう、と思い「絵 赤い服 男の子 ヨーロッパ」で画像検索すると、あっさり答えがわかった。一定の層に熱い需要があるらしく、複製画がたくさん売られている。有名な漫画家がストーリーのモチーフにまでしたことがあるらしい。

けれどここからがまた手こずる。この絵の作者単体の画集はなく、見つかったのは、美少年の絵ばかりを集めた小さな本の1ページに収録されているものだけで、結局は希望のサイズの本を提供することはできなかった。

まあ、ないなら仕方ないね。これでがんばって作ってみるよ。長時間ありがとう。利用者は自分が持ってきた紙をひらひらさせながら帰って行った。

時計を見ると13時半。昼休憩をとりそびれた。

係長に許可をもらって、遅い昼ごはんを食べる。菓子パンはもそもそして、飲みこみにくい。

働き始める前は、検索エンジンよろしくすぐに答えを出せるのが司書だと思っていた。特に自分の得意な分野なら、質問を聞いた瞬間、該当の本がぱっと頭に浮かぶだろうなどとたかを括っていた。
けれど、人間の数だけ質問も千差万別で、もともと持っている知識など毛ほどの役にも立たず、地道に時間をかけて調べて、その先でやっと答えのようなものが見つかる、それさえも実際にはめったにない。

すっきり解決する方がまれで、たいていは利用者が帰った後も、自分の調べ方が悪かったのか、もっとこうした方がよかったのか、悩み続けて、もやもやは消えない。

お前は果たして本物なのか、と常に問われているような気がする。例えば「マラーの死」を見たい人が今日のようにタイトルも作者も忘れていたら、果たして答えにたどり着けるだろうか。

試しに「絵 水虫 おじさん」で検索したが、スマートフォンの画面がおぞましい病原菌の画像だらけになり、食欲が更に失せただけで、肝心の絵は出てこない。不思議に思ってタイトルで調べてみると、水虫ではなく皮膚炎であった。

マラーさんごめんなさい、わたしは今まであなたが水虫だったと、たぶん10人くらいに話してしまいました。

数ヶ月後、美術館のちらしコーナーを何気なく見ていたとき、一枚のはがきに目が止まってはっとなった。見覚えのある構図は、確かにあのとき尋ねられた、赤い服の少年である。裏面には展覧会の会場や会期が書かれている。そうか、あの後ちゃんと作品を仕上げることができたのだ。

はがきをよく見てみたが、細部まで精巧に刺繍されているかどうかは小さすぎてわからなかった。

vol.60 了

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