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月曜日の図書館41 めくるめく自費出版本の世界①郷土資料編

こだわらない本に出会うとわくわくする。フォントがおかしかったり、製本が雑だったりするとたまらない。なぜタイトルを隷書体で書こうと思ったのか。答え:こだわりがないから。なぜホチキスで留めただけでいけると思ったのか。答え:こだわりがないから。
これらの本の作者にとっては、自分の成果が物理的に形になっていることが大事なのであり、それが図書館の棚に並んでいれば満足なのである。
本棚の近くを歩いていて、おどろおどろしい書体の背表紙と目が合うとはっとなる。内容は堅実な郷土資料なのに、怪文書のような雰囲気を醸し出している。これが素通りできようか。こだわらない本には、時に見る者をとらえてはなさない、暴力的な魅力がある。
もちろん、作者の意図したものではない。

明治時代の地図が入ってくる。駅のところを見ると「ステンショ」と書かれている。素直に「駅」と書けばよいのに、異国の言葉を使いたくて、でも使いこなせていない感じがいじましい。地図が好きな係長が、めがねを外してなめるように見ている。お城のイラストが載っているのを見て、「向きが違う...」とケチをつけている。
プレゼントがこんなかわいい模様の包み紙でくるまれていたら、中身がなんだってうれしいに決まっている。と思ったので、以前定年退職する館長への贈り物を似たような地図でくるんで渡したが全然喜んでくれなかった。中身が「クッピーラムネバラエティパック」だったからかもしれなかった。

地元にある石(または石碑)について、自分がぐっときたポイントをひたすら述べているすてきな本があって、その1と書いてあったので2を楽しみにしていたが、あるとき奥付を見ると30年以上前に作られた本だということがわかった。作者はおそらくもう、この世にいない。
続きがあると見せかけてない、というのもこだわらない本の世界ではよくあることだ。もちろん次を作りたいという気持ちはあったに違いないが、忘れたり、旅立たざるを得なかったりして、唐突に打ち切られる。今ごろは横たわる自分の上に立った石碑を見て、続きはあの世で語りましょう、なんてけらけら笑っているのだろう。

一文字の配置をめぐって、帯と表紙の色とバランスについて、何日も考え抜かれ、そうして生まれる本もあるのに、Word打ちっぱなしの明朝体やポップ体が、それらの頭上をひょうひょうと飛び越えてゆく。

グループで本を作っている場合は、その名前も見どころだ。〇〇の歴史を学ぼう会とか、〇〇を考える会、とか非常にそのまんまのことが多い。その種と仕かけのなさをじっくり味わうのである。

図書館も時としてそのこだわりのなさに加担してしまうことがある。本の帯を取り除く。フィルムカバーをかけ、表紙の裏に書かれているメッセージを封じる。立派な箱入り本の箱は小物入れ、書類ケース、案内板その他として館内のいたるところで再利用する。自習席の席札の返却箱をよく見たら、「おカネの法則 恐慌篇」が入っていた箱だった。

あの手この手で盛られたこだわりをひとつひとつ引っぺがし、後に残ったものがどれだけ多くて豊かであるか、そこまで見極めて本を選べる人になりたい。

ホチキス留めの本もあなどってはいけないのだ。他のどの本にも載っていない、ネットでも出てこない、ご近所のお地蔵さん情報が、エリア別で網羅されていたりするのである。

本棚の近くを歩いていて目が合ってしまったら、観念してそっとページをめくってみよう。最初は読みにくい字体と添削したくなる文章にイラッとするかもしれないが、読み進めるうちにだんだんとわかってくるはずだ。後に残るものの多さと豊かさ、それからどれだけのこだわりを持って、その本が作られたかを。

※このテーマは①郷土資料編しかありません。


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