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なんで笑っちゃうんだろう?−歴史編−

(注:前回の投稿から間が空いてしまいました…申し訳ありません…また、少しばかり長くかつぐちゃぐちゃなので、だらだら読むか、太字だけ読んでいただければ幸いです。)

前回の投稿では、笑いの認知心理学的な側面として、「スキーマ」「スクリプト」という視点から論じた。

今回は少し離れて、1990年代からのお笑いに関するごく私的な歴史について述べたい。

なぜ、1990年代か?一つは、1980年代の漫才ブーム以後であると言うことである。1980年代は、現在もお笑い界の頂点に立つとされる「お笑いビッグ3」が台頭し、日本のお笑いは一つの完成形を見た。このことは広く知られていることなので、これ以降の話をしたいと思ったのだ。

二つ目は、端的に自分が1995年生まれということだ。はっきり言って1980年代は文献や動画でしか想像できない。なので、まだ実感がある1990年代をスタートにしたい。
(なお、この記事ではとてもざっくりとしか述べないので悪しからず…)

1.1990年代 「かっこよさ」と「寒さ」としてのお笑い

1990年代のお笑いを象徴する言葉は、「かっこよさ」「寒さ」である。この時期に世間を席巻していたのは、ダウンタウン、とんねるず、だ。

ダウンタウンは、当時の漫才のあり方(シュールさを前面に押し出す手法へ)を変え、その後も「ごっつええ感じ」などある種作品的なお笑い番組(スタジオで観客との相互作用などを行わないような番組)を作り出す。そして、松本人志は『遺書』という芸人論を語ったエッセイ集を出版し、ベストセラーとして受け入れられるに至った。この『遺書』が「お笑い」=「かっこよさ」を決定づけたと言っても過言ではないだろう。
(なお、つまらないという意味で「寒い」という言葉を広めたのは松本人志だという。)

一方、とんねるずは、作家の秋元康とともに「夕やけニャンニャン」などで人気を博し、その後も「ねるとん紅鯨団」「とんねるずのみなさんのおかげです」などの番組で不動の人気を得るまでに至った。とんねるずは、素人芸的な芸風を前面に押し出し、ある種の反権威主義的な振る舞いをするのが特徴だ。特に、近年ではパワハラ的として非難されるような、自分たちのコンテクストを共有しない/させない人物を「イジる」芸は馴染みのものだろう。
 ここでも、彼らの「お笑い」は、「かっこよい」ものとされていた。この「お笑い」=「かっこよさ」と対義語としての「寒さ」という認知を大きく広げるのにとんねるずは一役買ったと言えるだろう。

つまり、1990年代で生み出されたのが「お笑い」=「かっこよさ」がわからないと「寒い」!という気質であった。

前回の記事の言葉で言えば、彼らの笑いの「スクリプト」を理解し、「笑い」を共有することが「かっこよさ」につながり、「スクリプト」を形成できない人間は「寒い」存在になる雰囲気が形成されたと言えるだろう。

ここで起きるのは、笑いのスクリプトを共有できる人間による共同性の確立である。笑いのスクリプトを共有している人が共同体意識を有し、グループを形成する。そしてそれらのグループは、笑いのスクリプトを共通の基盤として、いわゆる「島宇宙」(全体はなく、個々のグループが乱立する状態)が生まれることになった。その中で、笑いのスクリプトは、もはや複数乱立することになるのだ。

これは、一般層にまで浸透した。例えば、学校の教室などを思い浮かべてくれればいい。そこでは、ノリを共有できるものたちがグループを形成し、そして、グループ間でのノリの共有が行われない状況である。この起源の一つは、おそらく1990年代のお笑い=「かっこいい」の影響が大きいとも考えられる。

少し閑話休題。余談になるが、笑いのメタ化が志向されるようになったのもこの時期からと言えるだろう。この時期に登場した言葉は「スベる」だ。「すべり芸」というのは非常に複雑な構造をしている。

「スベる」とは「ここで面白いことを言うはず」と言う「スクリプト」に反して、「面白くない」という逸脱を起こすことで笑いを生む技術だ。つまり「面白くないことが面白い」と言うある種のハイリテラシーを見る側に要求する笑いのあり方なのだ。

さて、「お笑い」=「かっこよさ」は他分野へも波及する。この時期に多く見られたのは、「お笑い」芸人の他分野進出である。特に、音楽分野への進出が多く行われていた。

H jungle with t、ゲイシャガールズ、野猿、猿岩石、ポケットビスケッツ、KOJI1200…例を挙げればきりがないが、これも「お笑い」=「かっこよさ」がこの時期に確立されたことが要因だろう。

この「お笑い」=「かっこよさ」は、当時ほどではないが、現在でもその痕跡を残していると言えるだろう…

(注:『進め!電波少年』などの笑いから感動というムーブメントも、お笑いの「かっこよさ」の象徴として考えられるかもしれない。また、『めちゃ2イケてるッ!』などの番組も明らかに番組内で完結するような島宇宙的なノリを有した番組である。)

(注:この時代はまた、「番組内のテロップの過剰性」という点も特徴的である。現在では当たり前だが、この頃に番組内に大量のテロップを流すようになった。過剰説明とでも言えるこの傾向は、番組のみで内容を完結させる=受動的なオーディエンスを想定していると言える。また、テロップによって、ツッコむ形式も誕生した。いわゆる「ツッコミテロップ」と呼ばれるものだが、これは、前回の記事でも言及した「ツッコミ」によって「ボケ」の存在を生み出す手法の一つだ。なお、この技法は、ニコニコ動画のコメント機能や2chのレス技法として引き継がれることになる。)

2.2000年代 「データベース」と「キャラ」のお笑い

1990年代に生まれた、笑いのハイリテラシー(島宇宙化)化は後まで影を落とすことになるが、一方で、2000年代には大きな変化が現れる。2000年代のお笑いを象徴する言葉は、「データベース」「キャラ」である。

これは、インターネットが次第に普及していったことと軌を一にする。インターネット上では、個々人のデータは「データベース」に記録されるものに変換され、時系列やヒエラルキーなどは全て同じく一つのデータとして処理される(フラット化!)

また、インターネット上では、自身の身体を(直接)現すことがない。そのため、個人が自己表現を行う場合は「キャラ」を構築する(必要がある)。現在では、「○○キャラ」という言葉は一般的なものとなったが、この言葉が現実のコミュニケーションのあり方さえ規定するようになったのはインターネットの普及以後のことである。

さて、お笑いに話を戻すと、2000年代に登場したお笑い番組は、短時間で多くの芸人がネタを披露する形のネタ番組である。1999年の『爆笑オンエアバトル』を始め、その後は『エンタの神様』『爆笑レッドカーペット』『笑いの金メダル』などの番組が生まれた。
 当時は、漫才・コントのスタイルがある程度飽和したとされ、なおかつ、短時間で他の芸人と差異化をはかる必要があった。そこで生まれたのは「キャラ芸人」というスタイルである。出てくる芸人は、短時間でインパクトを残すために「キャラ」という手法をとったのだ。

(なお、この時期に頻繁に見られた「リズムネタ」なども、「キャラ」の一つして考えられるが、一方で多様化し、普遍化できないお笑いのスクリプトのなかで、多くの人から笑いを取るために、「リズム」という人間の身体的な部分(共通認識=スクリプトがある程度不要な部分)に訴えかけたと考えられる。)

 しかし、これらの「キャラ」は一度「データベース」に登録される(=スクリプトとして定着する)と、すぐに飽きられてしまう。「データベース」に登録されたものはいつでも引き出しが可能なものとして忘却されることになる。(なので、久々に引き出されたらまた、面白くなるなどの副作用もあり得る。)

 これは、我々が、インターネット上で「データベース」からコンテンツを次々消費し続ける様子と同様のものと言える。そして、「データベース」に登録された「キャラ」は消されることなく残り続け、変更不可能なものとして残ってしまう。これらが俗にいう「一発屋」というものになる。

そして、「キャラ」の「データベース」も飽和点を迎えることになる。ネタ番組は2000年代末に続々と姿を消すようになり、お笑いはインターネットが加速する中で「ポストトゥルース」に巻き込まれることになる…

3.2010年代 「ポストトゥルース」と「再帰化」するお笑い

 2010年代には、お笑い芸人のプレゼンス(存在感)は1990年代からの流れを引き継ぎながら、急速に拡大していく(コメンテーターやMC、さらには文芸や論壇まで進出するようになるなどの)一方で、コンプライアンスやポリティカル・コレクトネスが叫ばれ、規制の対象としても見られるようになった。なぜ、このような状況になったのか?キーワードは「ポストトゥルース」である。

 さて、「ポストトゥルース」という言葉だが、その意味について確認したい。コトバンクでは以下のように説明されている。

世論形成において、客観的な事実より、虚偽であっても個人の感情に訴えるものの方が強い影響力を持つ状況。

なるほど、確かにポストトゥルースは事実と虚偽の存在と言う問題点がある。しかし、「ポストトゥルース」は事実の有無という客観的な問題ではない。むしろ、我々の認識の変化の問題であると言える。

 そもそも、「事実」自体は言語や解釈によってのみしかアクセスできない。従来、「事実」と呼ばれてきたものは、「皆が共通認識できた(と思えた)何か」である。この「事実」の自明性がなくなった時代こそが「ポストトゥルース」なのである。
 共通認識がなくなり、いかようにも解釈ができるようなポストモダン的相対主義の時代では、「現実」と「フィクション」の境界線が自明ではなくなるのだ。

つまるところ、「ポストトゥルース」とは「現実とフィクションの区別は個々人によって異なることが自明である状況、または、その区別が無意味になる状況」ということができる。ゆえに、いかに感情に訴えるかが問題となり、多くの共感や感情移入がなされたものが事実として見なされるようになるのだ。

さて、ここでより問題となるのは、「ポストトゥルース」的状況、つまり「何が現実でフィクションかを判別することが困難になる」状況における我々の認知様式の変化である。そこで、一種のメタ化が起こる。ここでは、大きく分けて二方向の認知様式の変化が起こると考えられる。

一つは、「大体のことをフィクション(他人事)としてみなす」方向。もはや、ネット上での自己はおろか、自分の人生すらゲームとしてみなすような認識様式である。この認識様式が如実に出てくるのは「タイムリープもの」や「異世界転生もの」のアニメ・ノベル作品などである。これらの作品群では、個人の生はもはやゲーム(フィクション)としての意味しか有さない。人生を「イージーモード」や「無理ゲー」という形容詞で示すのもこの傾向の一つと考えられるかもしれない。

もう一方は、逆に「大体のことを現実(自分のこと)としてみなす」方向である。これはインターネットでの炎上現象によく見られる。批判される対象(フィクションの表現や著名人の言動)などは、自分とは関係ないのに、自分のこととして引き受けて非難する場合が多い。換言すると、自身とは本質的に接続しないことを過剰に接続しようとする(過剰に自身に重ね合わせてしまう)状況である。

 さて、お笑いに話を戻そう。「ポストトゥルース」の状況で、お笑い芸人の発言ももはやフィクション(冗談)として見なされない場合が多くなってしまった。もはやフィクション(冗談)としてのお笑いのスクリプトが通用しなくなってしまったのだ。
(昨今のお笑い芸人の言動に対する炎上を見れば自明であろう)

ここでお笑いが取りうる方向も二つに分けられるだろう。一つは、コンプライアンスに配慮し、「データベース」にある既存のものを踏襲する方法。これは、ゴールデンタイムの情報バラエティ番組などで決まった形のお笑いの振る舞い(=既存のお笑いスクリプトの踏襲)を行う場合である。要するに、「安パイ」というものである。ここでは、笑いの形式に関する刷新的なものは生まれない。
(また、音楽分野などで行われているようなデータベースのサンプリング的構築すらされていない状況であると個人的には考えている…)

 そして、もう一方は「お笑い」という枠組み自体に言及し、それを「お笑い」にする「再帰化」の方向である。
 既存のお笑いスクリプトが規制にさらされる中で、「お笑い」自体に言及することで、「お笑い」のスクリプト(=形式)を再創造しようとし、またそのことすら「お笑い」にする志向性が現れている。

「お笑い」自体を再帰化する意図を持つ番組としては、2000年代以降常に人気が高い『ゴッドタン』をはじめとして、『さんまのお笑い向上委員会』、『バラエティ開拓バラエティ 日村がゆく』などが挙げられるだろう。(依然として、既存のスクリプトを踏襲している部分も多いが、お笑いの再帰化への言及が部分的に見られる。)

 最後に漫才の「再帰化」についても少しばかり言及したい。漫才に関しても、「そもそも漫才の形式とは何か」という「メタ的な問い」を含んだものが見られるようになってきている。例えば、ジャルジャルの「国名分けっこ」、Aマッソの「ウイルスバスター」、金属バットの「落語批判」と漫才スタイルなどである。これらはどれも、漫才という形式に対するメタ的な視点を有しており、それ自体をお笑いとしている。

さて、2020年代のお笑いはどうなるのか。そんなことを思いながら、今日も僕は漫才を見てほくそ笑むのであった。

おわらいはおわらない。おわらいだけに。お後がよろしいようで。(!?)
オラオラ、あっした。

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