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「身体」はどこに行く?


(注:例にも漏れず、長いのでだらだら読むか、太字だけ読んでいただければ幸いです…)

 東京の夜の街を歩く。街には夜遅くまで多くの人たちが行き交う。身体にタトゥーを入れている人やピアスを開けた人が横目を過ぎる。かたや、インスタグラムやツイッターに載せるために自分の身体と流行りの商品を画角に収めようとポージングを繰り返す人たちがいる。

 街には、いろんな「身体」のあり方がある。言うまでもなく「身体」は人間が活動する上でベースとなるもので、かつては自分が自分であることの証明であった。自分の「身体」があるからこそ、自分の周りにあることを感じたり、理解することができるし、自分がどの位置にいてどのようなものなのかを把握できる。そして、自分の身体は他の誰かと入れ替え不可能なものであり、自分だけのものだと思われていた。

 さて、自分の前の投稿では、「ぎこちなさ」という観点から10年代を振り返って見たが、現在はまた「身体」のあり方が大きく変わった時代とも言えるかも知れない。

 例えば、VRの登場によって視覚が中心だったメディア文化に「身体」と言う観点が導入されたり、「エモい」という言葉で自分の「身体」に何か変化があったことを他人に伝えたり、各種広告で「健康に気をつけよう」とひっきりなしに喧伝したりなど…「身体」への関心がここ数年で高まりつつある。

 しかし、「身体」への関心の背景には、僕らの「身体」は「自分が自分であること」を保証するものでは、もはやなくなりつつあるということがあるのではないだろうか。

 僕らの「身体」はテクノロジーで隅から隅まで数値に置き換えられるし、改造可能なものになる。しかも、数値は別にその人がその人であることを証明するものではないし(数字自体は他のどんなものにも当てはめられる)、改造可能ならなおさら自分の体は自分だけのものではなくなる。
 その中で、僕たちは統一した僕にしかない「身体」なるものが保てなくなっているのではないだろうか?

 そもそも僕らの「身体」は不安定なものである。動物行動学や精神分析などによれば、生まれた時の赤ん坊は、自分の身体が統一されたものであると思っていないらしい。つまり、「身体」なるものが自分のものだとは思っておらず、それぞれの身体の部位はバラバラに動いていると考えているらしい。

 確かに、見てみればわかるが、赤ん坊は自分の身体をコントロールできていないし、自分の体と環境の区別ができていないように見える。赤ん坊から見れば、自分の指は口寂しさを満たすためのものであるかのようだったりする。何でもかんでも口に入れようとする姿は、まるでそれが自分の一部であり、それを取り戻そうとするように思える。また、足や腕は自分で動かしているというよりも勝手に動いてるようだ。(よく赤ん坊は本能で動いているようだと言われるが、その正体はこのようなことかもしれない。)

 では、どうすれば、それらの身体の部分が統一的に自分のものだと思うようになるのか?赤ん坊は、鏡や他人などから身体が統一されたものであるというイメージを持つようになり、それを誰かに認めてもらうことで自分の身体が自分のものであると思えるようになるらしい。「それはあなたの身体だよ」と認めてもらうことで、「ああ!これは自分の身体なんだ!」と認識できるようになり、喜ぶのだ。

 ここで、大事なのは、自分の統一された「身体」や自分の「身体」が自分だけのものであると思えるようになるのは、生まれたあとからであり、それはあくまでイメージによってであり、かつ、それを誰かに認めてもらわないとならないということだろう。

 ここで整理。この投稿では、「身体」は ①自分が自分であることの証明である/だった ②イメージから作られる ③誰かに認められることで持てるようになるもの と定義してみた。

 このように考えれば、自分が自分であることの証明としての「身体」というのは、イメージによって作られたものであり、ここ数年の変化(時代性やテクノロジーの発展などの変化)は、「自分の身体が自分だけのものだ」と思えなくしているのかもしれない。

 冒頭の話に戻る。すると、タトゥーやピアスは自分の身体が自分のものであるというイメージを作るためのものであると言えるかもしれない。しかも、痛みは他の人最も共有しにくく、自分だけのものとして感じられるものの一つである。

 タトゥーは、自分の身体が自分のものであるという痕跡(証明)(①)であり、自分の身体のイメージを保つためのもの(②)になる。
 ピアスは、自分の身体が自分のものでなくなることを防ぐために、ピン留めしているものになる。(①、②)
 また、それが他の人に認められれば、自分の身体のイメージを確信できる(③)。

 では、自撮りなどはどうなるだろうか?それは、徹底的に編集した自分の画像(スマホでの身体改造!)を人に見せたり、自分で見ることで自分の身体が自分のものであるというイメージを承認するためのもの(③)と言えるかもしれない。
 (ただ、いいね!は誰にでも当てはめられるので、その人がその人であることの証明にはならない。だからこそ中毒的に承認を求める。)

 余談だが、以前、自撮り写真ばかりを撮る人に「なんでそんなに自分の写真を撮ってるの?」と聞いてみた。すると、その人は「人に見てもらうのもそうなんだけど、自分で見ると落ち着くんだ。自分ってこうなんだなぁ、って」と答えてくれた。ただの一つのエピソードかもしれないが、これはこれで「イメージ」と「身体」の関係を示唆するようで興味深かった。 

 他にも、やたら自分のプロポーションや健康に気遣うのは、そのような身体のあり方が他人からの承認を得やすいというのもあるだろう(③)。

 このように身体のイメージが変わる中で、上記の例はネガティブに見えるかもしれないが、逆にポジティブに捉えることもできるかもしれない。僕らの身体は、もはやいくらでも変えられるものである。僕らはなりたい自分に変身できるかもしれないのだ。

 僕らは自分の身体のイメージを、つまり、自分がどのような人間であるかを決められるということだ。ただ、問題はある。それが他人から認められなければならないということだ。

 「〜な身体であれ!」
(〜には、健康、男らしく、女らしくなどが入る場合が多い)

 世の中には、自分たちの「身体(のイメージ)」をある方向に導こうとする強制力もある。その強制力は、もし、その「身体」でなければ、自分の「身体」が認められないかもしれないという不安を掻き立てる。しかし、そのような「身体」のイメージをみんな追い求めるとなると、自分の身体のイメージはもはや他の人と取り換え可能なものになり、自分だけのものでなくなるというパラドックスが生まれる。ましてや、そのあり方に居心地の悪さを感じることが少なくない。

 この強制力を掻い潜り、別の自分の「身体」を手に入れようとしても、認められないのではないか?という不安もまたある。

 だからこそ、必要なのだ。「君の身体は君だけのものだよ!」ということが。

 確かに人の身体は変わっていく。あくまでなんとなく安定しているように見えるだけなのだ。でも、身体が変わっていっても「君の身体は君だけのものなんだ!」と認めることは、少しは生きづらい人を救う手立てのひとつになるかもしれない…

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