第17段 山寺にかきこもりて。

徒然なるままに、日暮らし、齧られたリンゴに向かいて云々。

無題239

突然だが、皆さんはインドア派、アウトドア派、どちらだろうか。僕はいってしまえばどちらでもあるし、どちらでもない。信じられないくらいに家にも帰らずフラフラするときもあれば、家に引きこもりっきりで暮らすときもある。これは、インプットとアウトプットの関係上と言ってしまえばそれまでなのだが、どちらか一方ばかりを続けていると、格段に自分自身が腐ってゆく。今日みたいな天気の日はあえて外に出る。用がなくても外に出る。そしてわざと雨に当たったり、曇り空めがけて叫んだりする。最近よく思うことがある。と言うか、頻繁に頭をよぎる言葉だ。『口は災いのもと』そう思うような出来事が立て続けに起きている。僕は、一度頭に浮かんだ言葉を言わずにはいられない。もちろん、みんながみんなに言うわけではない。しかし、例えばその人との距離が近ければ近いほど、その言葉を伝えたくなってしまう。深層心理でいえば、ただ僕の真実を知ってほしいというそれだけのことなのだが、当然それは一つのエゴにすぎない部分でもあって受け取り方は相手によりけりだ。そしてそんな時は何か余計なことを言ったと思い、自己嫌悪に陥る。きっと、人間であるならばみんなそれなりにこういった経験はあると思うのだが、それでもなんとなくそう思っている期間中は何もかもが空回りしてしまうような気もする。そうやって閉じこもっていってしまうことは非常に簡単だが、結果として何かを阻害することにしかならないような気がする。勝手に心の要塞を築くと、ロクなことにはならない。だからなのだろうか。そう言う時こそ外に飛び出していく力が人間には必要なのだと、またバカの一つ覚えみたいに思うのだ。人間は時として壊れたラジオのようだ。きちんとそれなりに自分で直していかないと、そのままずっとおかしなからくり人形のようになっていく。今日は珍しく踊りの仕事が来た。ダンサーを引退すると宣言してから、不思議なことに踊る仕事がたくさん来る。何度か思考が行ったり来たりして受けようかなとも思ったが、結果としてダメだった。体が、すでに踊る体ではなくなっていた。体型が、とかそう言う問題ではない。ただ単に、体のテンションが、もう踊ることに全く向かっていないと言うことに気づいた。体の温度や熱量、そういったものからひしひしとそれを感じるような気がして何とは無しにその感覚を裏切ることができなかった。僕は僕自身でいたい。最近、そう言うことばかり感じているのかもしれない。僕が僕自身でいることをやめたなら、きっと、すべてのことを丁寧に感じることができなくなると思っている。感じることとは何か、と言うことにもなるのだが一つ言うとするならば、目の前のことや人のことを全身全霊で思うこと、受け止める、受け入れると言うことだと思っている。今日は突然六本木で動けなくなった。動けなくなった理由はわからない。街中を歩いていると、たまにそう言うことが起こる。感覚としては、人の気のようなものがいっぱい入ってくるような気がして、頭に霧や靄のようなものがかかる。もしくは、電波障害で映らないテレビのような音や映像が頭に流れてくる。雑音に耐えきれず、ひどい時は呼吸困難になる。過去に患ったPTSDのフラッシュバックのようなものなのかもしれないが、その度に自分自身が脅かされるのは癪なので、僕は僕自身で独学による訓練をした。そう。こういったときには、呼吸が落ち着いていればそのまま手すりのあるところまで移動し、街ゆく人を眺めることにしている。自分自身の中で、例えば羊を数えるようにゆっくりと数字を数えてみる。そうすると、例えば壊死した指先にきちんと血が流れるように、景色が色味を帯びてくる。こうしてゆっくりと見渡すと、みんないろんな顔をして歩いている。雨だから、憂鬱そうな顔の人が多いのだろうか。それとも、月曜日だから、辛気臭いと言うよりも、瞳に絶望をたたえているのだろうか、そういった表情も多く見て取れた。たまに、楽しそうに携帯を見ながら歩いてくる女性もいる。ヨタヨタと、前だけを見てカートを引くおばあさんもいる。自分以外の人はいわゆるみんな他人だ。地球はほとんどの他人で成り立っている。しかしながら、今誰かに話しかければその人は他人ではなくなる。知り合いになり、うまくいけば友達にもなれる。チャンスがあれば恋人にも、そのまま将来の伴侶になることだってありえるかもしれない。そう考えると自分たちはなんと面白い世界で生きているのだろうと、突然思えてくる。今の僕に必要なのは、きっといろんな人たちのことを眺めて、感じて、考えることなのだと思っている。ダンサーの仕事をしている時は、自分自身がただひたすらに見られると言う状況に置かれていた。まるでケーキショップの陳列ケースのように、微笑んで、ときには『私が一番美味しいケーキよ!』とでも言わんばかりに美しい姿を見せる。自分自身はと言うと、相手を直視することはまずない。むしろ、スポットライトが目に当たって痛いので、どこか遠い遠い、見果てぬ場所へと目線を飛ばし、相手を見ているように振る舞う。本当は相手の目なんて全く見ていない、鼻の先あたりを見つめているといってもいいかもしれない。だからこそ、ダンサーという生き物は相手の目を見つめることが実は大の苦手なのかもしれない。でも僕は生きている限り、目の前の人の瞳を見つめたいと思っている。引っ込み思案で、内気な僕だからこそ相手の美しい瞳と、そしてそこに写る僕自身のことをしっかりと、そしてときには吸い込まれるように見つめて溺れていきたいという願望がある。出会いは奇跡だ。いきている事は奇跡だ。閉じこもっている時は、決まって手術した直後の映像が頭をよぎる。あの時があったから、今がある。心の底からそう思う。








コギト・エルゴ・スム

風に吹かれる、虚ろな哲学者

MINAMI

画像2


この記事が参加している募集

#私の遠征話

2,549件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?