見出し画像

未来が、明日が、欲しければとっとと戦争を終わらせろ。

『僕の戦争』という歌がある。最近わけあってよく聞いてはいるのだが、これを聞くたびに思うことがある。人は誰しも何かと常に戦争をしている。それは自分自身の場合もあれば、芸術的観念の何かであったり、社会の壁であったり、そして何より多いのが『親』ではないだろうか、ということを思ったりもする。誤解を覚悟で言おう。親との戦争はとっとと終わらせるべきだ。親と戦争している限り、君たちに未来はない。明日はない。というわけで、まずは終わらせる方法をここに書こうと思う。実際に俺が実践した方法だ。まず、ゆかりのものを総て捨て去ることだ。写真、もらったもの、先祖代々のもの、なんでもいい。兎にも角にもそれら総てをまずは捨ててみる。初めは怖いが、人間良くできたものでだんだん慣れてくればなんてことはないことに気づく。物は所詮、物だ。3日と使っていない物ならば、魂が抜けている。だから捨て去ろうが何をしようが、言って見れば死骸と同じだ。大丈夫だ、勇気を持ってゴミ箱へGO。物というのは実に厄介な代物だ。なにせ、そこには思い出という名の足かせがつきまとっている。人間は自由になりたいと言いながら、実はこの足かせこそが気持ちいい、とどこかで感じている生き物だ。自由に見せかけた不自由こそが我々人間にとっての安逸の揺りかごであったりもする。だが、真に自分自身を生き切りたいと思っているならばそんなこと言っている場合ではない。『得るは捨つるにあり』という言葉があるように、空いたスペースにこそ必要なものは入ってくる。そしていつも思うのは、結局は、人間というものの中に遺るのは、経験や体験だと思っている。だからこそ、物にこだわっているうちは、何1つ得ることはできないと思ったほうがいい。ちなみに俺は、母子手帳を捨てた。母親にもらったのだが、生まれた時間やその時に何があったのか一通り目を通し、もう伝えてもらうことは伝えてもらった気がしたので断捨離の際に思い切って捨てた。最後はゴミ袋の前で合掌をし、成仏してもらった。ここまで書くと、なんと恥知らずな親不孝もの、と君は思っただろうか。残酷な人間だ、と思っただろうか。それでいい。その思いこそ、君のすべてだ。考えてみてくれ。君は、俺の何をみて、『親不孝』だと思ったのだろう。『自分はこんなに親のために生きているのに』と思ったからだろうか。『自分は親に楽をさせるためにこんなに頑張ったのに』と思ったからだろうか。思ったという自覚がなかったとしても、本能的に、心の片隅にその思いがこびりついていたからだろうか。あるいは他にも、不平不満怨恨欺瞞のなにがしかが渦巻いたからだろうか。改めて口にしよう。要するに、それこそが戦争なのだ。君の戦争、終わらせるべき、くだらない『親との戦争』なのだということに気づいたほうがいい。いいかい、君は一体いつまで、『親』を主語に生きているんだい。一体いつになったら、『私』が主語になるんだい。その時は果たしてくるのかい、それとも一生涯来ないのかい。どっちなのだろうね。そう、今一度自分に問いかけてみるといい。世間一般的に言って間違っていると言われていることに対して、もう一度、何が間違っているのかということを考えて感じてみることだ。世の中すべて間違っているだとか、陰謀論だとかそう言ったことを言っているわけではない。ただ、『君自身の意見』は一体どこにあるのかを今一度、見つめろと言っているのだ。社会は簡単だ。所詮、人間が作り出したものだ。俺自身の考えだって誰かの刷り込みかも知れないし、何かの影響をこっぴどく受けまくって偏屈になっている可能性だって否めない。今の俺のエネルギーなら(もう死んでるが)ニーチェだって殺せそうだと思うことも確かだが、それでも俺は少なからず自らの考えには納得して生きている。その1つの過程として、俺は『親との戦争』を終わらせた。そのために母子手帳を捨て、親の期待を捨て、家系が存続しなくても良い、と納得して今現在暮らしている。家を存続させ親を喜ばせるために俺は生まれたわけじゃない。理不尽だと思う前に、そもそも俺を生んだことを誤算だと呪ってくれ、と言いたい。それは親の話であって、俺の話ではない。申し訳ないが、管轄外だ。愛情があることも確かだとは思うのだが、愛情に似たえげつない不満や欺瞞を擦りつけられるのはお門違いだ。社会学という学問がある。この学問の根本は『総てを疑え』という概念にこそ存在する。世の中で大多数が良しとしているもの、くだらないニュース、なんだっていい。すべてをまずは一旦疑ってみる。本当にこの世で戦争が起きているのか。本当にコロナウィルスというものが存在しているのか。本当に年金は払わなければならないのか。税金を払わなければならない本当の理由はなんだ。義務教育とはなんだ、学歴とは本当に必要なものなのか。本当に笑っているのは誰で、本当に泣いているのは誰だ。そして君が本当に欲しいものは何で、本当にいらないものは何だ。気が狂ってでもいい、今一度、もう一度、総てに問いかけてみることをお勧めする。そして何度でもいうが、とっととくだらない戦争は終わらせて、君の闘いをはじめることだ。人生は何が起こるかわからない。明日死ぬかも知れないし、明後日死ぬかも知れない。時間はあるようでないのだ。君が本当の闘いをはじめた時、その時、君の中に遺っているものが、いわゆるこの世の真理の1つなのかも知れない。と、あらかじめここで付け加えておくとする。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?