第20段 なしがしとかや言ひし世捨て人の。

徒然なるままに、日暮らし、齧られたリンゴに向かいて云々。

読者の皆様、お久しゅうございます。こちらのシリーズ、長きことほったらかしにしておりまして、本日より再開するに至りましたで候。端的にいうと、俺は去年よりミニマリストになった。その前兆として、俺の月星座は乙女座だと友人に言われたことがあった。乙女座が月星座だと何が起きるか。簡単に言えば、『物に執着がない』ということだった。つまりは物に囲まれているとたちまちに運気を逃し、物の怨念のようなものに埋もれ死んでいくとのことだった。これを聞いた瞬間は『まさかぁ』くらいに思ってはいたのだが、実際言われてみるとそうかも知れないと思うことが多々あった。それからしばらくして、我が家に断捨離の神が降臨し、俺は3日間かけて神様と一緒に、一気に物を捨てた。何から何まで、兎にも角にも即座に使わないと判断したものは全て捨てた。結果的にわかったのは、ほとんどのものが俺のものではなかったということ。言ってみれば家族のもので、いつ使うともわからないものばかり。『価値がある』と親戚は吹聴して回っていたのだが、正直『そんなもん知るか』の精神で全てをゴミ袋に葬らせていただいた。ゴミ袋にして約50袋ほどあったであろう、それでも管理人のおじさんまで協力してくれて、ゴミ収集にも来てもらってなんとか捨て切ることができた。物にいくら執着がないとは言え、一応一緒に暮らしていたのだということで、ゴミ置場に置いた時には手を合わせて『ありがとうございました』とご挨拶をした。その時からいわゆる炊飯器と電子レンジなしの生活をしている。我が家の調理器具といえば、土鍋×2とタジン鍋のみだ。実にシンプルかつ、身軽で風通しがいい。この潔さのようなものが、俺はとても好きだ。人生はいかに潔くなれるかでその真価が変わってくるのではないかと思う。日本人たるもの、常にハラキリの精神は持つべきだと痛感する。最近、日本には結(ゆい)という概念があり、お互いに縁や様々なものを結ぶことを大切にしているという記事をよく目にする。なるほど、それもそれでいいのだが、結ぶことは下手をすると、足かせになりゃしないだろうかと思う自分もいなくはない。俺は現在、自分のことを愛と皮肉を込めて『セビーチェ』と呼んでいる。セビーチェとは、ペルーなどの南米にある魚のぶつ切り料理だ。そう、俺は基本的に何もかも『ぶつ切り』になっていることが多い。感情も、感覚も、関係性も、記憶も、総てがぶつ切りになっているのではないだろうか、と思うことが往往にしてある。そんな自分を特段嘆いているわけではなく、最近ではそう言った自分だからこそ、撮れる写真があるなあと思ったりもしている。表現の違いだと思うが本当に大切なものは、結ばずとも既にそこにありありと存在しているものであり、なんなら俺は総ての事物を解いていってやろう、と思った。何かを溜め込んで負債にするのではなく、解くことによって身軽になっていく。厳選して大切なものだけが手元に残る、それこそが本当の結の精神なんじゃないかと思う。それと同時に思うのが、風の時代なんて本当にあるのだろうかということだ。本当は風なんかじゃなくて、無の時代なんじゃないだろうか。無になるために、嵐が吹き荒れているのではないだろうか。地上では嵐だが、雲の上をみればそこには燦然と輝く太陽と目が痛いほどの蒼穹が拡がっている。風の時代と最初に表現したのは誰なのだろう。思うに、その人が身軽になりたかったのだろうなと思ったりもする。なんとなくだが、そこに宿る願いのようなものを感じたりしている。そうしてそこに賛同した人たちが、この表現を好き好んで使い始めたのだろうということを思う。人間は物を持ちすぎた。もう持たなくてもいい、もう持たなければいけないものなんて何もないと、やはり何度でも思う。こういう話も聞いた。今の女性の体は医学の発達により寿命が延びたため、本来の倍以上の生理を経験することになっている。生理は出産と同じで、病気でこそないが体にかなりの負担がかかるものである。しかしながら寿命は伸びても、実質体の仕組みまでは発達していないため、信じられなくらいの負担がその体にはかかっている、とのことだった。婦人科疾患が増えているのも、そのせいなのだろうかと思った。冷えのせいもあるだろうが、それ以前にこちらの問題もあるのだろうなと感ずる。何度でもいうが、人間は基本的には長生きしたい生き物だ。死ぬことから免れたい。そのために医学が発達し、昔に比べれば格段に寿命は伸びている。その結果として、老老介護だったり、年金問題だったり、少子化の問題が今、国を脅かしている。少子化問題については、本当に少子化だけが問題なのだろうかと思わざるを得ないが、それでも、人間が何かを求め続け欲しがり続けた結果として、今の現状があるような気がしてならない。快適なのも結構なことだ。それでも、快適だけが総てなのだろうか。否、快適や効率化の中に本来の生物の喜びはないとやはり思う。生きている実感を持ちたければ、効率化や快適さからはやはり遠ざかるべきだと感ずる。野生を目覚めさせてこそ、本来の人間としての喜びがあるような気がしてならない。生きる楽しさが宿る気がしてならない。人の敷いたレールからはみ出ることを恐れていては、やはり何もできない。どうせ死ぬんだ、死ぬことを恐れるのは結構だが恐れすぎて備えすぎて何か残るものがあるのだろうか。というわけでここで一つ、本当の風の時代を手っ取り早く体感するのに炊飯器と電子レンジを捨てることを俺はオススメしておくことにしよう。

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