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仏教思想のゼロポイントを読みながら思ったこと 5

この世すなわち物語の世界と、涅槃すなわち物語の外の世界なんだと。
オヤジ、涅槃で待つ、という遺書を残して自殺した沖雅也。当時、涅槃ってなんだ?と。自分ですら釈迦入滅の涅槃図、涅槃像からブッダの死としか理解していなかった。また、自殺した人間が涅槃に成仏することはない、とカトリックまがいの説も多かったが、佐々木閑さんのブッダの教えをYouTubeで聞くと、釈迦は自殺した方も解脱するのであると。
この世は、自我が作り上げた物語の世界、これは時間空間的に、人類、生物、自然が作り上げて、それを私の代でも物語に織りあげたもの。その外に涅槃がある。ということか。
ちょっと思うのは。
昔のインド人は輪廻転生を信じていて、それと関連して解脱、涅槃ができたと。
ブッダも輪廻転生は前提であったと。そして現代人は輪廻転生を信ずるものはいないと書かれており、佐々木閑さんも、私は輪廻転生は信じてませんよ、と。
しかし、平行して知識に入ってきた量子物理学や素粒子論、マルチバース宇宙論とか知れば知るほど、法華経の世界だなぁ、と。
真空があって、対生成というか凸あればバランス上凹が生じ、基本対消滅するが、どっちかがブラックホールにでも吸い込まれると物質がのこり、素粒子が集まってビッグバンになり、いつか星ができ、白色矮星が爆発してかけらが集まって星になり、生物になり今日に至る。いずれ太陽も爆発して、いろいろあって次の生物が。で、この宇宙も終わっても、ボコボコと次の宇宙が、かつ結びて、かつほどけ。物質は輪廻転生ですよ。精神は?大栗教授は、物理学から考えれば、意識や生命もいずれ要素に還元できて、物理学、数学として解明できるはず、と。
きっと、対生成や対消滅、4つの力でくっついたり反発したり、確率的にしか存在しないとか、さらに化学のまさにケミストリーなんて心理学用語ですから、これらの働きは、複雑系の中でいつしか意識やこころに進化したんだということか。であれば、心、意識、我も、肉体が素粒子に一旦還元されて、再び物理学、化学の範疇で別の心、意識、我の材料になりうるのでは、という意味では、輪廻転生はあると言えるように思います。
こうした形で続いていくならば別に苦ではないです。宇宙の材料として再利用される。
こうした理解は死について楽にさせます。もっとも苦が後生の一大事、つまり死の恐怖なのか、生きてるうちの尽きぬ煩悩、もっともっとの満たされぬ気持ちなのか、ということもあるが、なんらかの痕跡が素粒子レベルでは残るという理解はあります。
この時、この輪廻転生の外、物語の世界の外、それは何だろうか?
ひょっとして今のクォークレベルよりさらに下の素粒子が発見され、入れ子細工のようにどんどん下層の素粒子があって、無限に降りていって、最後は物理学法則以前の場のエネルギー、気、みたいなものかも。そこまで行けば解脱涅槃か。

直感的にはそういうことで、輪廻転生はあり、その関わりで、解脱涅槃があると。

ここまで読んで、母に始まる他者からの指令、物語がフィクションと気付いた時、もっともっとの満たされなさから逃れられ、意識や心も物理学の範疇でしかないと理解して死の恐怖から逃れられ。
なすべき事がなされていれば、というようには思っているので、ここまでのところこんなところです。

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