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六 翠令、竹の宮の姫君の話を聞く

 翌日の昼を回ってから翠令は左近衛府に出向いた。近衛大将ともあれば午前中は 御政務があろうと思ったからだった。

 建物に入ると同時に、中にいた中肉中背の男がぱっと振り返る。敏捷な身のこなしからしてなかなかの武人らしい。思わず翠令も身構える。

 けれども、その男は翠令を見るなり、ふやけたと言ってよいほど柔らかい笑みを浮かべて見せた。

「ああ、貴女が女武人の翠令ですね。はじめまして。ええと、私は左衛門督さえもんのかみを拝命している朗風ろうふうって言います」

 新参の翠令は膝をついて相手に礼を取り、困った顔で見あげた。

「翠令にございます。あの、私は近衛府に来たつもりなのですが……ここは衛門府でしょうか? 不慣れで場所を間違えたのでしたらお許しを」

 朗風と名乗る男は笑みを深くする。

「いえいえ大丈夫、ここが近衛府ですよ。私も佳卓かたく様に会いに来たところです。私が案内しますから、ついて来て下さい」

 翠令は歩き出した朗風の後に続いた。

「私は佳卓様の乳兄弟でしてね。よくここに遊びに来るんです。今日は名高い女武人に会えると聞いて楽しみにしていました」

「名高い……」

「錦濤の姫宮の邸宅でじゃんじゃん賊を退けてたんでしょう? 勇敢ですねえ。その上、山崎の津では佳卓様に剣を向けたそうじゃないですか」

「それは……」

 屋内の最奥に衝立があった。そちらに歩み寄る朗風の背中に翠令が尋ねる。

「理由はあれど、近衛大将ほどの貴人に刃を向けてしまって……私にお咎めはないのでしょうか?」

 その問いには朗風ではなく、衝立の奥から応答があった。

「愚問だね」

 朗風がその声の主に呑気な声を掛ける。

「あれ? 佳卓様もういらしてたんですか? 食事はどうされたんです?」

 朗風が何の遠慮もなく衝立の向こうに行ってしまうので、翠令もその後に続く。

「やあ、翠令」

 紙の束や木簡などが山と積まれた机の向こうの椅子に、佳卓が斜めに座っていた。足を組んで机に近い方の肘をつき、もう一つの手に何かの書類を持っている。その文面から視線を移すことなく、淡々と彼は言葉を発する。

「仕事が溜まっていてね。何かを食べている暇もない。山崎の津の一件なら翠令に理がある。何も咎める必要はない」

 翠令はここでも膝をつく。見れば佳卓の格好は貴人の装束。この朝廷の重臣であることを改めて突き付けられて、どうして畏まらずにいられるだろうか。彼女は床に跪いた。

「ご挨拶申し上げます。この度──」

「いや、いいよ」

「は?」

「挨拶は抜きだ。無駄だろう」

 翠令としても要らぬ儀礼に拘泥する気はない。自分一人のことなら、そのまま挨拶抜きで済ませても良いかもしれない。しかし……。

「私は錦濤《きんとう》の姫宮の従者として京に上って参りました。礼節を弁えない田舎者よと笑われては、姫宮の名誉にかかわります」

 佳卓が翠令の方に視線を向け、細い眉を跳ね上げる。

「いいよ、堅苦しい挨拶がしたいのならそうしても。つきあってもいい。けれど、私は時間の無駄のように思うけどね。そんなことより、どうだね、初めて上がった内裏の感想は?」

 朗風が相変わらずにこやかな顔で囁く。

「さあ、立って」

「でも……。私の感想などよりも……」

 佳卓が翠令に向き直った。そして、男にしては細く長い指を卓上で組んで見つめてくる。

「では質問を変えよう。翠令から見て、姫宮の新しいお住まいに警備上の問題は何かないかね?」

 翠令は心の中で「ああ」と呟きながら立ち上がった。挨拶の要不要より、近衛としての業務の方に関心がおありなのだ。この貴人はとんでもなく実際的な人間らしい。

「そのようなお話でしたら、ちょうど私から姫宮の警護の在り方について質問がございました」

「ほう?」

 佳卓の、黒々とした瞳に興味深そうな光が宿る。

「ぜひ聞こう」

「都の女君はとても長い裾の装束で過ごすもののようです」

「ああ、姫宮も翠令も大陸風だね、そう言えば」

「梨の典侍という方は、この御所では御簾の中に閉じこもって立ち歩いてもならないのがしきたりだと当初言われました。しかしながら、姫宮が『自分も御所風の長い服に改めるべきか』とお尋ねになると、『動きやすい格好でお過ごしになればいい』と答えられる。矛盾しているように思えてなりません」

「……」

「我らは錦濤の暮らし方を押し通そうと思っているわけではありません。御所のしきたりに馴染まなければならないのなら、そうすべきでしょう。但し、姫宮がこれまでどおり自由に庭に下りたり外に出かけたりされるのか、それともずっと邸内でお過ごしなのかどうかで警備の範囲も異なります。いったい梨の典侍の真意はどのようなものなのでしょうか?」

 佳卓がほんのわずかに首を傾げた。

「本人に聞こうとは思わなかったのかね?」

「なんとなく憚られましたので……。鄙育ちに分かるまいなどと姫宮を軽んじていらっしゃるわけでは全くなさそうでしたが、どことなく悲しそうで……。姫宮がご活発に動かれるならそれでもよいと覚悟されたご様子でもありました」

「なるほどね……」

 それきり佳卓が押し黙る。先ほどまでとは打って変わって重苦しい表情だ。
 
 ふと見れば、朗風までもが苦々し気な表情を浮かべていた。

 立ち入ったことを聞いてしまっただろうか、と翠令は思う。

「あの……障りがあるなら無理に答えてもらわなくても構いません。幸い私は殿上に昇ることを許されましたし、姫宮のお傍にさえいられればどのような状況でもお守り申し上げるまでですから、警備の都合など私の方でどうとでも致します」

 佳卓はしげしげと翠令を見つめた。

「翠令は思慮深いね。梨の典侍の心情を思いやり、姫宮の警護は詰まるところ己の問題だと割り切って不要な好奇心を引っ込める」

「私が思慮深いかはともかく……。私などの耳に入れるべきことではないなら強いて伺おうとは思いません」

 いや、と佳卓は首を振った。

「翠令に秘密にしようと思っている訳じゃない。ただ、口にするとなるととても気が重い話なのでね……」

 さて、どのように語ろうか。佳卓一つ前置きをし、そして壁にある連子窓から少し空を見上げた。
 春の終わりの頃の昼、淡いながらも爽やかな青空が佳卓の目に入ったはずだが、彼はそれを見て忌々し気に目を逸らした。

「こんないい天気の日の昼間から話したい内容じゃあない。この穏やかな空の下、今でも悲しみ癒えぬ人がいるのだから……」

 佳卓は少し考えをまとめる時間を取ってから、説明を始めた。

「翠令、錦濤の姫宮は昭陽舎にお入りになったろう?」

「ええ……」

「昭陽舎には、十年ほど前に先々帝の内親王がお住まいであられた」

 翠令は首を傾げざるを得ない。

「ええと……先々帝のご息女は……」

「姫宮の父君の同母妹だ。姫宮には叔母にあたる。東宮であられた兄君と仲が良く、ご一緒に昭陽舎にお住まいであられた」

「錦濤の姫宮に叔母上様がいらしたのですか? 今まで全く聞いたことがありません……」

 もし本当なら姫宮と比較的血の繋がりの近いご親戚が生きてお過ごしだということになる。姫宮が聞けばお喜びになるだろう。だが……なぜ今までその存在を知ることが無かったのか……?

「その御方はもともと人知れず遇されていらした。色々理由はあるが、禍々しいほどお美しかったからだとも言えるかな……」

「それほど美貌の姫なら音に聞こえるはずでは?」

「錦濤の姫宮の父君が東宮を廃されたときには童女でいらしたからね」

 幼い間は神のうちとされ、貴人の中にはひっそりと育てる風習がある。美貌の姫ならなおさらだったかもしれない。当時それほど幼かったのなら、今のご年齢は二十ばかりかと翠令は心の中で計算した。

「それに、先帝が甥の東宮を廃して帝位を簒奪した経緯は武力蜂起だったからね。その後は争乱で落ち着かない中、いくら美しかろうと廃太子の妹姫のことなど気にしていられなかった」

 戦乱の混乱に紛れて忘れ去られるのは分かる。しかし……それだけでは済まなかったのは?

「反対にお尋ねしますが……そのような、いわば打ち捨てられたような姫君が内裏の昭陽舎にとどまっていられたのはなぜなんです?」

「……まあ、それもその美しさゆえだね……」

 兄の後に玉座を襲った先帝にとっては、錦濤の姫宮の父が甥であるのと同様に、その妹姫は姪にあたる。

「先帝が姪御を手元に置いておかれた? 臣下の誰かに降嫁させる心づもりでもおありだったのでしょうか? なら、姫君の存在を世に知らしめるでしょうに」

 朗風が口を挟んだ。

「ある意味、内裏の中だけで噂になりましたよ。──帝の醜聞としてね」

 佳卓がうんざりした顔をした。

「あの先帝に自分の行為を醜いと思う感性があったかは相当に疑わしいがね。ただ、先帝を憚って内裏の外には漏れなかったのだろう」

「何があったんです? 禁裏の奥深くで事態の収拾はついたようですが」

 その問いに対する佳卓の答えに、翠令は耳を疑う。

「襲いかかったんだよ、先帝が」

「……それは……姪にあたられる姫君を女性だとみて……ということですか?」

「そうだ。まあ、叔父と姪、甥と叔母でも親同士で何らかの思惑があれば婚姻した事例が過去にないわけじゃない。しかし、先々帝と先帝は同母の兄弟だから血が濃い。また、姫君には親に当たる庇護者がおらず正式な婚姻という形にはなりえない」

 佳卓はやるせなさそうに息を吐いた。

「それだけでも問題だがね。さっきも言ったろう? 姫君はまだ十歳になるかならないかというご年齢にすぎなかった」

 翠令はは息を呑む。そこに朗風がそっと語りかけた。

「錦濤の姫宮に東宮の位が回ってくるのが妙だと思いませんでしたか? なぜ先帝のお子は今上帝ただ一人なのか、と。」

「それは……。偶然のことかと……。そうですね……先帝は相当な色好みと錦濤でも知られていました。そう言われれば、御子が一人だけとは妙なことです……」

 佳卓が話を引き取る。

「妙と言うより当然ではあるのだよ。帝が所望するのは、御子などお産みになれない年端のいかぬ少女ばっかりだったのだからね」

 翠令は胸に冷え冷えとした重苦しいものが落ちていくのを感じた。先ほどまでいた外の陽気が別世界のように寒々しく、嫌な風に肌が粟立つ思いがする。

 それは佳卓にとっても同じ思いらしい。苦々しげに吐き捨てた。

「胸くそが悪い話だ」

 翠令も唇をきゅっと引き結んで頷いた。

 佳卓が口許を忌々し気に歪める。

「残念ながらこれは先帝の困った性癖だけでは片づかなかった。その姫君は身ごもられてね……」

「十歳前後のご年齢で? 月の物は……可能性はありますが……」

「姫君は女君としての成長がお早くていらした、不幸なことに」

「……」

 翠令は佳卓の言葉に拳を握る。女君が成熟したことの何が不幸でなければならなかったというのか。この場にいる誰にぶつけても仕方がない怒りだけれども。

「姫君は身ごもられはしたが、ご出産はかなわなかった。そしてついに錯乱なされた……」

 翠令には言葉もない。叔父に襲われ望まぬ妊娠をし……。彼女には、その姫君の胸中を想像しようにも限界を感じる。あまりにも過酷なことで正気を保つほうが難しいのかもしれない。

「今は……いかがお過ごしなのでしょう?」

「洛外の西の山の中に小さな宮を与えられて静養なさっている。竹を周辺にお植えになり、竹に囲まれた宮にお住まいゆえ、竹の宮の姫君と申し上げる」

「そうお暮らしと伺うと、風雅を楽しまれる健やかさを取り戻していらっしゃるかと思えますね……」

 佳卓は複雑な顔で答える。

「ご趣味もあるかもしれないが……。竹林の中には、竹の切り株を鋭く尖らせて槍のようにした物が多数しこまれている。人を警戒なさるお気持ちがお強いようだ」

「それは……」

 翠令はそそけだつ思いでそれを聞いた。姫君は未だ恐怖から立ち直っておられない。切り立った竹に身を守らせながら過ごしていらっしゃるのだ。

 黙り込んだ翠令に、佳卓は気遣う様子を見せた。

「まあ、御所をお離れになってからは落ち着いて過ごされる時間もおありのようだよ。竹の宮の姫君の警護は何も竹槍任せにしてるわけじゃなく、近衛で人員を手配している。聞くところによると竹の宮では書物を読んでお過ごしになることが多いらしい」

 朗風が言い添えた。

「当世の女君ゆえ最初は仮名しかお読みになれなかったようですけど、今では真名も読み書きなさるとか」

 この国には西の大陸の王朝「燕《えん》」から文字が伝来し、少し前の世代では男女問わず燕の文字を読み書きできた。しかし、翠令の祖父母の代あたりから、燕の文字をこの国風にあらためた仮名が広く用いられるようになり、女君ならそれが読めれば十分とさるようになった。仮名に対して、燕の文字を真名という。

「円偉様が、姫君のお慰めにと燕の書物も読まれるようおすすめなされて……」

 佳卓が少し表情を緩めて頷いた。

「円偉殿の淡い初恋でいらしたようだからな」

「……」

「円偉殿は私より一回りほど年上だね。とても謹厳実直な人柄でいらっしゃる。そんな方には本当に珍しい話だ」

 そう説明されても翠令は困惑するばかりだ。

「私はそもそも円偉様の為人も存じ上げません。帝のお側に控えてられるのを拝見しただけです。史上稀なほど優秀な文官とお聞きしていますが……」

「立派な方だよ」

 双璧と称される佳卓は気負う風もなくさりげなく褒めた。しかも、出自は自分の方が高いのに丁寧に相手を呼ぶ。

「素晴らしい才人だ。燕の哲学書を深く読み込んで血肉としている。そして、それを政に活かそうとする非常に真面目な方だ。私と双璧と呼ばれるが、私は今一つ真剣みの乏しい人間なのでね。ああいう堅実な朝臣がいると助かる」

「……」

 翠令は「全くです」とも言えず微妙な顔で押し黙る。

 佳卓は翠令の表情を面白げに見ながら続けた。

「そんな堅物が、仮名しか読めない女君に向けて燕の真名を習得するための手ほどき書を著して献上なされたんだ。風流な恋の詩歌ではなく、学問書というのがあの方らしいといえばらしい話だね」

 佳卓が「そうだ」と思い出した風に言い添えた。

「真名の初学者向けの書物があるから、竹の宮は真名の学びどころともなっている。近衛府から武人を護衛に遣わすついでに、書庫でその真名の習得書を読ませていただくんだ。それで真名の読み書きができるようになった者も多い」

「そうですか……」

 佳卓がいたずらめいた顔をした。

「翠令も行くかい?」

「いえ、私は一通り真名も読み書きできます。錦濤の姫宮は燕風にお育ちで、姫宮もその周囲も昔風に真名を読み書きできるのです」

「ほほう、円偉殿が喜びそうな話だね」

「竹の宮の姫君は、真名が読めないような低い身分の者が出入りするのを厭うてはいらっしゃらないのですか?」

 佳卓は苦く笑って首を振った。

「身分が高い者の方がお嫌らしい。昔の宮中を思い出させるからだろうね。真名など心得ぬような、そしてできれば年若い者の方が心やすくお感じのようだ」

「なるほど……」

 教養ある大人、帝であり叔父である男に裏切られたのだ。それに似た存在など目にも入れたくないとお思いなのかも知れない。

 だから、と佳卓は続けた。

「梨の典侍も竹の宮でのお側仕えがかなわなかった」

「……?」

「梨の典侍は昭陽舎で幼い頃より姫君にお仕えしていた。昭陽舎に梨の木が生えているだろう? 姫君が幼い頃、その典侍がお気に入りで庭に花咲く梨の一文字をお与えになられたほどだ。しかし……姫君はお側に仕えていた馴染みの女官ほど遠ざけられた。我が身を守ってくれなかったとお恨みなんだろう」

「……そうですか……」

「梨の典侍の方も、姫君をその不幸からお守りできなかったと深く後悔しているようだ。翠令の言う、錦濤の姫宮の燕服の話もそれで説明できるかと思う」

「姫宮の……?」

「そうだ。典侍も思うところがあるんだろう。深窓の姫君として奥床しくお育て申し上げたゆえに悲劇から身を守れなかったのではないか、と。竹の宮の姫君は立ち歩くこともなく、引きずるような長い装束でお過ごしだった。錦濤の姫宮は動きやすそうな服だし、どうやら闊達なご気性のようでいらっしゃる。いざとなったら自力で逃げだせそうな姫宮の元気の良さを大切にすべきと思ったのかも知れない」

「そうでしたか……」

 あの典侍はそのような悔恨を抱えていたのか。

 翠令だって可愛らしい姫宮をどんな恐怖からもお守り申し上げたいと思っている。もし、姫宮にこのような災いが降りかかってきたら。そして、翠令がそれを防ぐことができなかったら。それは慚愧の念に耐えないことだろう。
 その上、それを理由に姫宮から疎まれたら……。お仕えする者として、あまりにも哀しい。

「梨の典侍も気の毒なことです。直接の責もないのに……」

「そうだね……」

 翠令が我がことのように同情を寄せる様を、佳卓が興味深げに見つめていた。

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カクヨムで最終話まで読めます!
「錦濤宮物語 女武人ノ宮仕ヘ或ハ近衛大将ノ大詐術」


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