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日本外史 巻之四(源氏後記 北条氏)

底本:頼山陽『日本外史(上)』 頼成一、頼惟勤 訳(岩波書店、1994年4月18日 第11刷)
漢語原文:維基文庫—日本外史

〔時宗、権を執る〕

康元元年。時賴有疾。削髮。先是。時賴學禪於宋僧道隆。爲造建長寺。又造最明寺。於是老於最明寺。長子時宗猶幼。以重時子長時執權。弘長三年。時賴卒。臨卒作偈曰。業鏡高懸。三十七年。一槌破碎。大道坦然。葢享年三十七也。

 康元元年(1256)時頼疾あり。髪を削る。これより先、時頼、禅を宋の僧道隆に学ぶ。為に建長寺を造り、また最明寺を造る。ここにおいて、最明寺に老す。長子時宗、猶ほ幼なり。重時の子長時を以て執権とす。弘長三年(1263)、時頼卒す。卒するに臨み、偈を作って曰く。「業鏡高く懸る、三十七年。一槌破砕し、大道担然たり」と。蓋し享年三十七なり。

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時宗年十三。敍從五位下。任左馬權頭。外舅安達泰盛參與軍政。文永三年。將軍宗尊稱疾不出。僧良基入禱之。而不徵藥。府下頗有物議。兵士四至。良基出奔。幕府近臣稍稍出。留侍者五人而已。宗尊竟還京師。立其子惟康代之。七年。長時卒。時宗執權。時宗庶兄時輔與長時弟義宗。俱鎮六波羅。時輔居常怏怏。愧降於弟。九年。二月。時宗令義宗擊時輔殺之。聞其有異志也。
時宗爲人強毅不撓。幼善射。弘長中。大射於極樂寺第。將軍欲觀小笠懸。顧命諸士。無敢應者。時賴曰。太郎能之。太郎。時宗幼字也。召而上場。時年十一。跨馬出。一發而中。萬衆齊呼。時賴曰。此兒必任負荷。

 時宗、年十三。従五位下に叙せられ、左馬権頭に任ぜらる。外舅安達泰盛、軍政に参与す。文永三年(1266)、将軍宗尊、疾と称して出でず。僧良基、入りてこれを禱る。而して薬を徴せず。府下頗る物議あり。兵士、四より至る。良基出奔す。幕府の近臣、稍稍出で、留り侍する者五人のみ。宗尊、竟に京師に還る。その子惟康を立てゝこれに代らしむ。七年(1270)、長時卒す。時宗執権たり。時宗の庶兄時輔、長時の弟義宗と、倶に六波羅を鎮す。時輔、居常快快として、弟に降るを塊づ。九年(1272)二月、時宗、義宗をして、時輔を撃つてこれを殺さしむ。其の異志あるを聞けばなり。
 時宗、人と為り強毅にして撓(たゆ)まず。幼にして射を善くす。弘長中、極楽寺の第に大射す。将軍、小笠懸を観んと欲し、顧みて諸士に命ず。敢て応ずる者なし。時頼日く、「太郎これを能くせん」と。太郎とは時宗の幼字 なり。召して場に上らしむ。時に年十一。馬に跨つて出で、一発にして中(あ)つ。万衆斉しく呼ぶ。時頼日く、「此の児必ず負荷に任へん」と。

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〔文永の役〕

當是時。宋氏爲胡元所滅。諸隣國皆服於元。獨我邦不通使聘。元主忽必烈。令韓人致書於我曰。不服則尋兵。朝廷欲答之。下鎌倉議。時宗以其書辭無禮。執爲不可。元主復遣使者趙良弼來。時宗令太宰府逐之。凡元使至。前後六反。皆拒不納。十一年。十月。元兵可一萬。來攻對馬。地頭宗助國死之。轉至壹岐。守護代平景隆死之。事報六波羅。令鎮西諸將赴拒。少貳景資力戰。射殪虜將劉復亭。虜兵亂奔。

 この時に当り、宋氏、胡元の滅す所となり、諸ゝの隣国、皆一元に服す。独り我が邦、使聘を通ぜず。元主忽必烈(げんしゅくぶらい)、韓人をして、書を我に致さしめて日く、「服せずんば則ち兵を尋(もち)ひん」と。朝廷、これに答へんと欲し、鎌倉に下して議せしむ。時宗、其の書辞の無礼なるを以て、執つて不可となす。元主、復た使者超良弼を遣し来らしむ。時宗、太宰府をしてこれを逐はしむ。凡そ元使の至る、前後六反なり。皆拒んで納れず。十一年(1274)十月、元兵一万可り、来って対馬を攻む。地頭宗助国、これに死す。転じて壱岐に至る。守護代平景隆、これに死す。事六波羅に報ず。鎮西の諸将をして、赴き拒がしむ。少弐景資力戦し、射て虜の将劉復亨を殖す。虜兵乱れ奔る。

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〔弘安の役〕

而元主必欲遂初志。後宇多天皇建治元年。元使者杜世忠何文著等九輩。至長門。留不去。欲必得我報。時宗致之鎌倉。斬于龍口。以上總介北條實政爲鎮西探題。遣東兵衛京師。西兵衛者。悉從實政。益築太宰府水城。省冗費。充兵備。弘安二年。元使周福等復至宰府。復斬之。元主聞我再誅使者。則憤恚。大發舟師。合漢胡韓兵凡十餘萬人。以范文虎將之。入寇。四年。七月。抵水城。舳艫相銜。實政將草野七郎。潛以兵艦二艘。邀擊于志賀島。斬首虜二十餘級。虜列大艦。鐵鎖聯之。彀弩其上。我兵不得近。河野通有奮前。矢中其左肘。通有益前。仆檣架虜艦。登之。擒虜將王冠者。

 而して元主必ず初志を遂げんと欲す。後宇多天皇の建治元年(1275)、元の使者杜世忠・何文著ら九輩、長門に至り留って去らず。必ず我が報を得んと欲す。時宗、これを鎌倉に致して、竜口に斬る。上総介北条実政を以て鎮西探題となし、東兵を遣して京師を衛らしめ、西兵の衛る者は、悉く実政に従はしむ。太宰府の水城を益し築き、冗費を省いて兵備に充つ。弘安二年(1279)、元の使周福ら、復た宰府に至る。復たこれを斬る。元主、我が再び使者を誅するを聞き、則ち憤恚して、大に舟師を発し、漢・胡・韓の兵凡そ十余万人を合して、范文虎を以てこれに将とし、入寇せしむ。四年(1281)七月、水城に抵(いた)る。舳艪相ひ銜(ふく)む。実政の将草野七郎、潜に兵艦二艘を以て、志賀島に邀(むか)へ撃つ。虜の二十余級を斬首す。虜、大艦を列ね、鉄鏁にてこれを聯ね、弩をその上に彀(は)る。我が兵近づくを得ず。河野通有奮つて前む。矢、その左の肘に中る。通有、益ゝ前み、檣を仆し虜艦に架して、これに登り、虜の将の王冠せる者を擒にす。

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安達次郎。大友藏人。踵進。虜終不能上岸。收據鷹島。時宗遣宇都宮貞綱。將兵援實政。未到。閏月。大風雷。虜艦敗壞。少貳景資等因奮擊。鏖虜兵。伏屍蔽海。海可步而行。虜兵十萬。脫歸者纔三人。元不復窺我邊。時宗之力也。

 安達次郎・大友蔵人、踵(つ)ぎ進む。虜、終に岸に上る能はず。収めて鷹島に拠る。時宗、宇都宮貞綱を遣して、兵に将として実政を援けしむ。未だ到らず。閏月(じゅんげつ)、大風雷あり、虜艦敗壊す。 少弐景資ら、因つて奮撃し、虜兵を鏖(みなごろし)にす。伏尸(ふくし)、海を蔽ひ、海、歩して行くべし。虜の兵十万、脱れ帰れる者、纔(わずか)に三人。元、復た我が辺を窺はざるは、時宗の力なり。

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〔北条氏論賛〕

外史氏曰。時宗之禦元虜。保我天子之國。足以償父祖之罪矣。虜葢以其所以恫喝趙宋者。來擬於我。我卻其使不納。未有曲直也。及彼以兵來脅。剪屠我邊疆。則曲在於彼。彼使再來。不可不執而戮之。折彼兇威。定我民志。奪其所挾。而決死待之。可謂深中機宜矣。否則我幾何而不爲趙宋也。其後唯菊池氏之待明。庶幾接武。足利氏屈膝外嚮。不足言已。豐臣氏能不辱國體。勝足利氏萬萬。然至與明戰。張皇太甚。內自困敝。雖攻守勢異。不及北條氏遠矣。北條氏之策。守則土著不煩徵發。軍須不擾經費。委任將帥。不自中掣之。其戰。則憑陸誘寇。走舸逆戰。短兵急接。皆可以爲後世之法也。吾嘗觀鎮西士人所傳元寇圖卷。虜盛以砲礮臨我。而我兵揮刀奮前。虜不暇發焉。葢是時。我未有火器相敵。吾是以知兵之勝敗。在人不在器。我長技自有在焉。可恃也。

 外史氏日く、時宗の元虜を禦いで、我が天子の国を保ちたるは、以て父祖の罪を償に足る。虜、蓋し其の趙宋を恫喝する所以の者を以て、来つて我に擬す。我その使を卻(しりぞ)けて納れず。未だ曲直あらざるなり。彼、兵を以て来り脅し、我が辺疆を剪屠するに及んでは、則ち曲、彼に在り。彼が使再び来るや、執(とら)へてこれを戮せざるべからず。彼が凶威を折き、我が民志を定め、其の挾(さしはさ)む所を奪ひ、而して死を決してこれを待つ。深く機宜に中ると謂ふべし。否(しから)ずんば、則ち我れ幾何か趙宋たらざらんや。その後、唯ゞ菊池氏の明を待てるは、武(あと)を接ぐに庶幾(ちか)し。足利氏の、膝を屈して外に嚮へるは、言ふに足らざるのみ。豊臣氏、能く国体を辱しめざるは、足利氏に勝ること万万なり。然れども明と戦ふに至つては、張皇太甚しく、内、自ら困弊す。攻守、勢を異にすと雖も、北条氏に及ばざるや遠し。北条氏の策、守は、則ち土著して、徴発を煩さず。軍須(ぐんすう)は経費を擾(みだ)さず。将帥に委任して、中よりこれを掣せず。その戦は、則ち陸に憑つて寇を誘ひ、舸を走らせて逆へ戦ひ、短兵、急に接す。皆以て後世の法となすべきなり。吾れ嘗て鎮西の士人伝ふる所の元寇の図巻を観るに、虜、盛に砲礮(ほうおう)を以て我に臨む。而るに我が兵、刀を揮つて奮ひ前む。虜、発するに暇あらず。蓋しこの時、我れ、未だ火器の相ひ敵するあらず。吾ここを以て知る、兵の勝敗は人に在つて器に在らず、我が長技は自ら在るあつて、侍むべしとなすことを。

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