北条時宗

第三巻 第五章 幕府権力の拡大

〇鶴岡八幡宮で公暁(二十歳)に暗殺される実朝(二十八歳)
N「鎌倉幕府の権力争いはなおも続き、承久元(一二一九)年、ついに将軍実朝が、頼家の息子である公暁に暗殺されるに至り、源氏の正統が絶えた」

〇平安宮、院庁
大江親広が後鳥羽上皇に謁見している。
後鳥羽「朕の皇子を将軍に立てたいと申すか」
親広「は。何とぞ……」
後鳥羽「……源氏の正統が絶えたというなら、なにゆえ鎌倉(幕府)は存続しておる」

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雑記:伊豆韮山界隈の史跡

今回は静岡県の伊豆の国市、合併前は韮山町であった界隈の史跡を一挙紹介。

数年前に伊豆長岡駅でレンタサイクルを借り、韮山駅・原木駅あたりまで足を伸ばして可能な限りの寺院や史跡を回ったが、まずは源頼朝配流の地である蛭ヶ小島。

現在は史跡公園になっており、石碑と源頼朝・北条政子夫妻の銅像が建っている。

韮山駅からほど近い願成就院。

運慶作の国宝の仏像五体を所蔵する伊豆の名刹で、北条時政の開基。

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南関東の石造物⑭:海晏寺五輪塔群(伝・梶原景時、北条時頼、北条時宗、二階堂出羽守供養塔)

名称:海晏寺五輪塔群

伝承など:梶原景時、北条時頼、北条時宗、二階堂出羽守供養塔

所在地:東京都品川区南品川 海晏寺

大井町駅から南に下った所にある南品川の海晏寺は、寺伝によれば鎌倉時代の建長年間に北条時頼によって開かれた寺院であると言う。

境内に入ってすぐ左手に四基の五輪塔があり、それぞれ梶原景時、北条時頼、北条時宗、二階堂出羽守の供養塔と言う伝承があるが、これは海晏寺が北条時頼の開基に

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雑記:鎌倉あれこれ

鎌倉の石塔を度々紹介して来たので、石塔以外の名称もいくつか。

北鎌倉の名刹、鎌倉五山第二位の円覚寺、国宝の舎利殿。

円覚寺佛日庵、北条時宗の廟所で、内部には時宗・貞時・高時の木像を安置。

鎌倉三十三観音霊場第一番札所の杉本寺。

杉本観音の名で親しまれ、本尊は鎌倉でも屈指の古仏。

二階堂の覚園寺、境内は撮影禁止なので山門の写真のみだが、薬師堂や本堂には仏像が多く安置されていて、鎌倉でも一際

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近畿地方の石造物⑨:高野山奥の院町石塔婆(二十番石、秋田城介泰盛造立)

名称:高野山奥の院町石塔婆

伝承など:安達泰盛造立、安達盛長、景盛供養塔

所在地:和歌山県伊都郡高野町 高野山奥の院

高野山の各地で、町石塔婆と呼ばれる石塔が見られるが、これは鎌倉中期に高野山金剛峰寺の金堂の壇場から奥の院の弘法大師廟まで、また金堂から麓の慈尊院までの道に一町ごとに立てられた道標であり、町石塔婆は高さ三メートルほどの石柱であり、上部が五輪塔の形をなしている。

町石塔婆は奥の

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驀直去

みなさんは読めますか?
私は読めませんでした。
コピペしてGoogle先生に聞きました(笑)

「驀直去」とは「まくじきこ」と読みます。
まっしぐらに一直線に突き抜けろという意味で、鎌倉幕府八代目の執権・北条時宗への、中国から円覚寺に来ていた無学祖元のことばだそうです。

逸話に興味がある方は、Google先生が教えてくれるので聞いてみてください(笑)

この言葉をくれた人は、

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高校日本史334 元寇と北条時宗

クビライは南宋攻略に向け樊城を包囲した。日本には国書を送るが、北条時宗は南宋側に立ちモンゴルとの戦いを選択する。1273年、樊城が陥落、三別抄の乱も鎮圧される。1274年、元軍が博多沖に出現、モンゴル戦争が始まった。

#0177【元寇、弘安の役(日本史通史シリーズ)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。月初の日本史通史シリーズ。

対馬・壱岐での被害はあったものの、何とか一度は元・高麗連合艦隊を追い返すことに成功しました。

(前回:No.176【元寇、文永の役】)

実はこの時、中国大陸の方では南宋は滅んでいませんでした。元は、長江の重要拠点を1273年~1274年にかけて奪取していましたが、南宋の抵抗は続いています。

その合間に前回の文永の役(

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#0176【元寇、文永の役(日本史通史シリーズ)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。
今週は日本史通史シリーズです。
モンゴルが日本に襲来する前に激動の中国大陸について前回概括しました。

今回は【No.163:北条時頼と得宗体制】の続きからモンゴル襲来前の鎌倉幕府内の状況を確認します。

鎌倉幕府は北条氏が主導する体制を5代執権北条時頼の時に確立します。
時頼は、1256年に執権の地位を父の従兄弟である北条長時に譲りますが、実権は握

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