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小学校中学校の友人はいるのか?

僕は自分の子どもが小学生なのだが、どうも友人関係がうまくいっていないように見える。イジメられるということはないもののうまく溶け込めていないように思うのだ。それを妻は痛く心配している。それを見て僕は言う。

「別に良くないか?」

大事なのは周りと違っていてもそれでいいと認めてくれる人間、ウチの子の場合は親の存在が大事なのではないかと思うのだ。僕はいつも自分の子どもに言っているのは、「自分の思った通りに生きなさい。最低でもパパに自分の主張をして叱られないと思う生き方をしなさい。」と。
例えば、暴力は悪いことだが、誰かを守るために仕方なく振るった暴力はどうだろうか?暴力は暴力だ、しかしそれは社会的には罰を受けるかもしれないが、自分の子どもがしたことだとしたら加減にもよるとは思うが、認めることもあると思う。一番よりそうであろう僕を納得させられないようなことをするな。そんなことだ。

昔から少し一般の発達とズレていた。2歳でひらがな、カタカナ、アルファベットの大文字は読めていた。ヒトという動物の発育上、言葉を覚えてから文字を覚えるのに文字から覚えて大丈夫か?と思ったが、本人が興味を持った時がやりどきだろうと思い教えた。もちろんいいことばかりではない。ひらがなとカタカナを物心がついた時から知っているので貴賤がないのだ。みんなひらがなを覚えてからカタカナを覚えると思うのだが、すでに知っているので、文字を書くようになるときに、「を」を「ヲ」と書いたり、「ぬ」を「ヌ」と書いたりするのだ。ひらがなの文章に急にカタカナが出てくるし、難しいひらがなに重要性を感じていないので覚えようとしなくて、文字を書くときにひどく覚えが悪くて苦労した。

そして小学生になった今どうなったかというと、興味を持ったら際限なく先のものを教えているので、算数の繰り上がりのある足し算や繰り下がりのある引き算をして計算間違いをしているのに「グラフを知りたい。」といい、理科に関しては元素記号や構造式を少し理解している。空気の話をしていたのだが、説明をしていると同音異義語が出てくることがあるので、学校で習っている習っていないを関係なく漢字で書くようにしているのだ。当然読めないのでふりがなを振る。それが面倒になってきて構造式で書くようにしたら、パズルのように受け取ったらしく、「これはあるのか?」、「じゃあ、これは?」見たいなことをしていたら覚えていったのだ。ビタミンをまとめて書いているパックのジュースがあって「C」を見て「炭素?」と言っていた。
小学1年生では理科という教科が今はないので、3年生で始まる理科を心待ちにしているとのこと。
「構造式は小学生では習わないよ。」
「え?!!!」
という会話をした。

そんな子なので、周りとうまくいかないこともあると僕は思っているし、それはそれでいいと思っている。公立の小学校とか中学校はたまたま家が近いだけ、同じ学年に生まれただけの人たちなのだ。気にすることもないし、仲良くする必要もない。ただ、社会で生きていく中で最低限社会のルールを守る。気に食わないから殴っていいかと言われたらそういうわけではないし、嫌なひと相手でも挨拶ぐらいはするとか最低限の礼儀を覚えるそんな場所だと僕は思うのだ。

妻に僕は言う。
「あなたは小学校の同級生と今でも付き合いはありますか?」
「ない。」
「じゃあ、小学校の頃に最悪友達いなくても一緒じゃない?」
「確かに。」
もちろんその頃の思い出もあるだろうから、友達がいないよりはいた方がいいと思う。しかし、いなかったり嫌われていたとしてもそのあと関わりないならそれまでだと思うのだ。気にすることはない。

落ちこぼれでも浮きこぼれでもどちらでもいい。自分の好きなことを見つけて没頭できる環境ができることの方が人生は幸せなのだ。僕で言うと武術研究にあたるだろうか。そういったものを子どもにも見つけてほしいと僕は思う。
そのために必要なことは学校で遊ぶことかもしれないし、いろいろな場所に行っていろいろな人に会うことなのかもしれない。

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