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糸を紡ぐ技、編む技② 木綿業の発展

江戸時代になると、絹織物が庶民の禁制品になったことや人口増加といった社会変化を受け、丈夫で実用的な綿織物の需要が高まっていく。

そんな中、西日本地方を中心に木綿業が発展、室町時代以来の綿産地・三河では、西尾、安城、岡崎、三谷(蒲郡市)などの広域にわたり展開されている。灌がいに不便な土地が多かったことから、米作に代わる表作として綿花が栽培され、農閑期に綿布が織られた。三白木綿(三河木綿とも)と呼ばれたこの布は、西三河南部の港を経由して江戸へと送られ、肌着や手ぬぐい、はんてんなどの素材として人気を博したという。こうして三河は、元禄年間(江戸前期)には、伊勢(三重県)、河内(大阪府)、摂津(同)に次ぐ綿産地となっている。

また、米作に不適な丘陵地の多い知多では、三河から綿種を取り寄せ、慶長年間(織豊時代~江戸初期)に表作として綿栽培が始まった。やがて白木綿の生産もおこり、江戸で人気だった松阪晒や伊勢晒の素材として供給された。天明年間(江戸後期)には、岡田(知多市)の中嶋七右衛門らによって伊勢の晒の技がもたらされ、オリジナルブランド・知多晒が誕生、直接江戸に送られるようになる。江戸末期には、需要に応じきれないほど大量の注文を抱えるまでになり、三河や伊勢から白木綿を仕入れて晒に加工したという。

さらには、豊かな農業地帯だった尾西でも江戸前期より綿栽培が始まっている。当初は繰綿(種を取っただけで精製していない綿)のまま、三河や美濃(岐阜県)に出荷されていたにすぎなかった。しかし、明和年間(江戸中期)には綿織物(京都西陣・桟留縞の技を移入)を、文政年間(江戸後期)には絹綿交織物(絹と綿のまぜ織り。下総《茨城県》・結城縞の技を移入)を手がけるようになる。これらの織物は尾張縞と呼ばれ、高級織物として江戸に出荷された。

木綿糸 (写真の製品は明治~昭和初期のもの。 豊田市近代の産業とくらし発見館)

各地とも綿織りについては、賃機(問屋制家内工業。商人から織機や糸を貸与された農家が住居内で織布)という生産形態が長らくとられてきたが、江戸末期になると尾西で、内機(工場制手工業。工場を設けて奉公人を雇い、分業体制で織布)という先進的な形態が出現する。さらには同じ頃、室町時代からの手織り機(地機)を改良した高機の導入も各地で始まった。こうした動きが、後に近代的な繊維産業が愛知に根づく素地となる。

『尾張名所図会』をもとに 江戸末期の尾西の織屋を再現 (設置された織機は新式の高機。一宮市博物館)

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