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愛知在住、平日はメーカー勤めのサラリーマン。休日は産業史を中心に地域の歴史を勉強してい…

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愛知在住、平日はメーカー勤めのサラリーマン。休日は産業史を中心に地域の歴史を勉強しています。これまでの業界紙寄稿記事や講演資料等を再編集して、愛知ものづくり産業の歴史を概括します(全45回ほどの予定)。愛知のものづくりに関する小ネタとして使っていただければ幸いです。

マガジン

  • からくりとすり合わせの技

    愛知ものづくり産業史 機械産業編

  • 食材を醸す技

    愛知ものづくり産業史 食品編

  • 糸を紡ぐ技、編む技

    愛知ものづくり産業史 繊維産業編

  • 鉄を鍛える技、鋳る技

    愛知ものづくり産業史 鍛冶・鋳物業編

  • 土を焼く技

    愛知ものづくり産業史 窯業編

最近の記事

  • 固定された記事

はじめに ~愛知ものづくり産業界を俯瞰する~

日本一のものづくり県と呼ばれる愛知。 「2022年公表・経済産業省経済センサス(2020年実績)」から、愛知は「製造品出荷額(量)、付加価値生産額(質)、いずれも第二位の大阪を引き離して日本一であること」「24業種中10業種の製造品出荷額が全国トップシェアであること」がよみとれる。 また、2021年現在、「経済産業大臣指定伝統的工芸品」として、有松・鳴海絞、常滑焼、名古屋仏壇、岡崎石工品、瀬戸染付焼、三州鬼瓦工芸品など、全15品目が愛知から指定されている。 さらには、愛知に誕

    • むすびにかえて ~愛知ものづくり産業界の今、そして今後~

      過去から現在へと歴史には連続性がある。たとえば、ジャーナリストの池上彰氏は「歴史の前後には常に因果関係があり、いくつもの出来事の積み重ねによって形づくられている」と、作家の原田伊織氏は「歴史というものは、一本の線で繋ぐことができる連続性をもっている」と説く。 愛知ものづくり産業もまたしかり、「前の時代に根がないと新しい産業の芽はなかなか育たない」(2019年4月19日付中部経済新聞)のである。いきなりポッと出たものなどが一つもないことは、ここまでの話を通して理解いただけたかと

      • からくりとすり合わせの技⑦ 進化と原点回帰

        平成時代を迎えると、戦後の急激な経済成長の反動で、環境、エネルギー、福祉、安全といった社会問題が表面化し、官民あげた対応が求められるようになった。こうした状況のもと、愛知の産業界でも諸問題解決の一助となる製品の開発が進んだ。 その中心はやはり“車”だった。トヨタ自動車は平成9年に世界初のハイブリッド乗用車を開発。ガソリン車同様の走行性能を保ちつつ約2倍の低燃費とCO2排出量半減を実現した。また、世界の流れが電気自動車に向かう中にあって、同社は次の手として水素で走る車の開発に

        • からくりとすり合わせの技⑥ 国産技術の確立

          戦前、愛知県下にまかれた重工業の種(工作機械、航空機、“車”)は、戦後の復興期(昭和20年代)を経て高度経済成長期(同30年代)に開花する。そして同39年に、地域唯一の銑鉄一貫製鉄所・東海製鉄(現日本製鉄名古屋製鉄所。東海市)が設立されると、これを追い風に同40年代以降さらなる成長をとげていく。 このうち著しい成長をとげたのが“車”である。昭和30年代、モータリゼーション化が進んで国内の自動車産業界は活況を呈したが、未熟な技術を補う意味もあり、外国車のノックダウン生産が主流

        • 固定された記事

        はじめに ~愛知ものづくり産業界を俯瞰する~

        • むすびにかえて ~愛知ものづくり産業界の今、そして今後~

        • からくりとすり合わせの技⑦ 進化と原点回帰

        • からくりとすり合わせの技⑥ 国産技術の確立

        マガジン

        • からくりとすり合わせの技
          7本
        • 食材を醸す技
          7本
        • 糸を紡ぐ技、編む技
          10本
        • 鉄を鍛える技、鋳る技
          4本
        • 土を焼く技
          11本
        • 木を削る技
          3本

        記事

          からくりとすり合わせの技⑤ 戦後復興(必要なものは何でも)

          アジア太平洋戦争(昭和16~20年)の末期、愛知の機械各社はアメリカ軍による空襲の標的となって壊滅的な被害を被った。しかし終戦からほどなくして、焼け残った工作機械や材料をかき集め、「必要なものはなんでも」というスタンスのもと、ものづくりを再開する。その後、朝鮮戦争(同25~28年)勃発にともなうガチャマン景気という追い風が吹いたことで、回復は決定的なものとなり、多岐にわたる機械製品がつくられた。 たとえば、連合国軍総司令部(GHQ)による自動車生産の制限(統制)がかかる中、

          からくりとすり合わせの技⑤ 戦後復興(必要なものは何でも)

          からくりとすり合わせの技④ 重工業化の進展(祖業の活用)

          日清戦争(明治27~28年)や日露戦争(同37~38年)を経て、政府は軍備拡張のために国内産業構造の転換(軽工業から重工業へ)を図り、民間重工業の成長をうながした。これを受けて愛知県下で創業した機械各社は、祖業の経験を活かして、今日の愛知ものづくり産業に直接つながる三つの製品を実用化した。 一つ目は工作機械。陸軍の要請を受けた大隈麺機商会は、明治37年に旋盤の生産を開始する。以後、陸軍向けの旋盤メーカーとして事業拡大する一方、毛紡績機や漁網機などの民需品にも注力している。

          からくりとすり合わせの技④ 重工業化の進展(祖業の活用)

          からくりとすり合わせの技③ 多彩な機械製品の誕生

          明治後期から大正時代にかけて、国産品の鋼材(普通鋼や特殊鋼)の普及が進むと、機械部品の素材の置きかえ(木から鉄へ)が大きく進展、国内機械産業の成長は加速度を増していった。愛知でも大正5年、電気炉製鋼による特殊鋼生産が始まった(電力会社・名古屋電燈の製鋼部門が独立した電気製鋼所による。現大同特殊鋼)が、これと前後して、県内外から集った起業家のアイデアのもと、多彩な機械製品(民需向け)が誕生している。 ■佐賀県出身の実業家・大隈栄一は明治31年、麺類が盛んに食されていた名古屋に

          からくりとすり合わせの技③ 多彩な機械製品の誕生

          からくりとすり合わせの技② 西洋製品の国産化(江戸時代の技の流用)

          江戸末期、鎖国が解かれて欧米諸国との国交が結ばれると、西洋の機械製品が続々と国内に流入するようになる。産業力(国力)の差を痛感した幕府や有力諸藩はこぞってこれらの国産化に取り組み、その志は後の明治政府にも引き継がれた。 こうした中、愛知のからくりとすり合わせの技は、ときの起業家のアイデアのもと、木の技、鉄の技ともども欧米の先端技術と融合する。その結果、近代的な機械産業がめばえ、木鉄混製(フレームやボディは木、軸や歯車などの可動部品は鉄)の機械製品が誕生していった。ただし、

          からくりとすり合わせの技② 西洋製品の国産化(江戸時代の技の流用)

          からくりとすり合わせの技① からくり製品の誕生

          ここまでの素材加工の技とは視点を変えるが、機械工学に関わる「からくりとすり合わせの技」も外せない。からくりとは、ぜんまいや歯車などを使って道具を自動的に動かすしかけ(自動装置)のことである。また、すり合わせとは、異なる素材や複数の部品を相互調整しつつ、一つの製品へと仕上げる手法のことで、現在、日本のものづくり産業界の誇る強みの一つとして世界的に認知されている。 ときは室町後期にまでさかのぼる。上野(春日井市)を拠点とした鋳物師・初代水野太郎左衛門(水野鋳物)は、永禄5年に

          からくりとすり合わせの技① からくり製品の誕生

          食材を醸す技⑦ 和洋折衷の食文化形成へ

          高度経済成長期(昭和30年代)を迎えると、所得向上や核家族化、家庭電化が進み、嗜好品やインスタント食品の需要が高まる。こうした中、愛知でも新しいジャンルの食品(食文化)が誕生した。 まずは嗜好品の事例だが、ニッカレモン(後のポッカコーポレーション。現ポッカサッポロフード&ビバレッジ。谷田利景が昭和32年に名古屋で創業)が、同年、合成レモンを製品化。高価な輸入品だったレモンを普及させるためだった。その後同社は、夏は冷やし冬は温めて飲める缶コーヒーの開発を志し、同47年、国産初

          食材を醸す技⑦ 和洋折衷の食文化形成へ

          食材を醸す技⑥ 洋食の本格的な普及

          日中戦争とアジア・太平洋戦争が終結した昭和20年、海外からの軍人や民間人の引き揚げにともなう人口増加、米の不作などが重なって、国内の食糧不足が深刻化する。このため翌年より、連合国軍総司令部(GHQ)を通じてパン用小麦粉や各種缶詰の提供を受けた。これがきっかけとなって、国内一般家庭への洋食の普及が急速に進み、愛知でも関連食品がいくつも展開された。 一つ目の事例はパン。大正11年に舟橋甚重が創業した名古屋の金城軒(現フジパングループ)は、昭和21年に配給パンの生産を開始、同25

          食材を醸す技⑥ 洋食の本格的な普及

          食材を醸す技⑤ 伝統食品の展開

          明治時代、伝統食品分野でも動きがみられた。それまで醸造品は江戸などを中心に、ソウルフードは愛知周辺に供給されていたが、物流インフラの整備が進み、ともに全国各地へと市場が拡大していった。 まずは酒造業。江戸末期、中国酒(愛知の酒)は灘酒(兵庫県)と肩をならべる生産量を誇っていたが、明治8年に酒類税則が制定されたことで低迷期を迎える。そんな中、県下最大の酒造地帯となっていた知多では状況打開のため、当時珍しかった醸造試験所が同16年、亀崎(半田市)に設けられ、科学的な醸造法の研

          食材を醸す技⑤ 伝統食品の展開

          食材を醸す技④ 西洋風食品の誕生

          明治時代を迎え、政府による欧米文化の移入や富国強兵政策のもと、栄養や滋養という概念が国内に根づいて食の多様化が進み始める。こうした中、愛知でも多彩な西洋風食品が誕生していった。 明治20年、小鈴谷(常滑市)の事業家・盛田善平は、中埜酢店(現ミツカングループ)店主・4代目中埜又左衛門とともに丸三麦酒醸造所(後の加富登麦酒)を半田に設立し、国産ビールの生産を開始する。同20年代後半には、ドイツ製ビール醸造機の導入とドイツ人技師の招へいによって品質向上を図り、同33年のパリ万国博

          食材を醸す技④ 西洋風食品の誕生

          食材を醸す技③ 伝統食品の誕生 その3(ソウルフード)

          続いては醸造以外の分野である。江戸時代までの間に、今もなじみの深い食品が愛知から多数誕生している。以下その代表的なものだが、大市場向けの醸造品とは対照的にソウルフードという性格のものが多い。 ■知多半島、西三河海岸部、渥美半島などでは、古墳時代より土器製塩(土器で海水を煮沸して塩を精製)が行われており、奈良時代、この地域の塩は醤と同じく租税(調)として朝廷に上納された。室町時代になると、大量生産が可能な入浜式塩田法(塩田に海水を引き入れ、太陽熱で水分蒸発させて塩を精製)へ

          食材を醸す技③ 伝統食品の誕生 その3(ソウルフード)

          食材を醸す技② 伝統食品の誕生 その2 (豆みそほか)

          飛鳥~奈良時代の発酵調味料だった醤は、平安時代頃、みそへと進化した。この原料として、豆に加えて米や麦も使われたが、愛知では豆みそが主流となる。 延元2年(南北朝時代)、八丁(岡崎市)の大田弥治右衛門(現まるや八丁味噌の創業者)が豆みそづくりを開始した。室町時代になると豆みそは、三河武士の兵糧として重用されている。また、今川義元の家臣で永禄3年(室町後期)の桶狭間合戦に従軍した初代早川久右衛門は、今川家が敗れた後に岡崎の願照寺へと逃れ、ここでみそづくりを学んだと伝わる。その後

          食材を醸す技② 伝統食品の誕生 その2 (豆みそほか)

          食材を醸す技① 伝統食品の誕生 その1(酒造)

          酷暑厳冬で多湿の愛知では古くから食材を醸す技が培われてきた。文献上の初見は天平年間(奈良時代)のこと。奈良東大寺の『正倉院文書尾張国正税帳』に、葉栗郡でつくられた醤(豆みそのルーツ)や酒(濁酒と思われる)、滓(酒かすと思われる)が租税(調)として朝廷に献上されたと記されている。 また、清酒づくりも早くから行われていた。『日本文徳天皇実録』によると、斉衡3年(平安初期)、朝廷から派遣された酒造師によって、伊勢神宮(三重県)に供えるお神酒が尾張一宮の酒見神社でつくられたという(

          食材を醸す技① 伝統食品の誕生 その1(酒造)