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糸を紡ぐ技、編む技③ 新製品の誕生

江戸時代の間、大都市の需要に応える形で成長した木綿業に対し、 主に地元地域の需要や事情に応えて誕生、 成長した分野もあった。 以下その代表的な事例だが、いずれも現在「経済産業大臣指定伝統的工芸品」 に認定され、根強い需要のもとで生産が行われている。

一つ目は有松絞。東海道の「間の宿」整備の一環で、慶長13年(江戸初期)に開拓の始まった有松(名古屋市)では、農作地が少なかったため、米作に代わる産業が求められていた。こうした中、阿久比から有松に移住した竹田庄九郎は、三白木綿(三河木綿)に絞り染めを施した手ぬぐいを考案し、有松絞の歴史が始まった(九州の豊後絞を参考にしたとも)。以後、尾張藩の保護のもとで生産量を増やし、地域の特産品として東海道を往来する旅客相手に店頭販売され人気を博した。天和元年(江戸中期)には、第5代将軍就任の祝いとして、尾張藩から徳川綱吉に絹布の有松絞の手綱が送られている。そして明治時代を迎えると、隣村の鳴海(名古屋市)でも絞り製品の生産が本格化し、昭和初期に最盛期を迎えた(現在、有松・鳴海絞と呼ばれる)。

有松・鳴海絞の見本帳(年代不明。有松・鳴海絞会館)

二つ目は名古屋黒紋染付。慶長16年(江戸初期)、尾張藩紺屋頭を務めていた染物業者・小坂井新左衛門が、染色の技を黒紋染付に転用して、藩の呉服、旗、幟などを生産したことが嚆矢といわれる。当初は固めた糊で防染して家紋を染め抜く「紋糊伏せ」という技が用いられたが、天保年間(江戸後期)には型紙を用いて防染する「紋型紙板締め」という技が生み出された。さらに明治時代を迎えると「紋当金網付け」という技にシフトし、染色工芸の一つとして今も受け継がれている。

三つ目は名古屋友禅。そのルーツは享保年間(江戸中期)にまでさかのぼる。享保15年に第7代尾張藩主に就任した徳川宗春は、ときの第8代将軍・徳川吉宗の発した倹約令に反し、遊興や祭を奨励する文化積極策をとった。その結果、京の絵師や友禅師が往来するようになり、名古屋に友禅の技が伝わったという。しかし、宗春の失脚後、尾張藩は従来の質素な気風に戻ってしまう。それにともない衣裳の友禅模様も色数を控えた渋い単彩調子となり、これが現在の名古屋友禅の原型となった。

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