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からくりとすり合わせの技② 西洋製品の国産化(江戸時代の技の流用)

江戸末期、鎖国が解かれて欧米諸国との国交が結ばれると、西洋の機械製品が続々と国内に流入するようになる。産業力(国力)の差を痛感した幕府や有力諸藩はこぞってこれらの国産化に取り組み、その志は後の明治政府にも引き継がれた。 

こうした中、愛知のからくりとすり合わせの技は、ときの起業家のアイデアのもと、木の技、鉄の技ともども欧米の先端技術と融合する。その結果、近代的な機械産業がめばえ、木鉄混製(フレームやボディは木、軸や歯車などの可動部品は鉄)の機械製品が誕生していった。ただし、近代化を標ぼうしていたものの、黎明期である明治中期頃までは、江戸時代の産業資源(技や原料など)に頼るところが大きかった。 

その嚆矢は人力車で、名古屋関鍛冶町の堀田吉兵衛が明治5年頃に生産を開始しており、同時期に、荷車の生産も盛んになったという。いずれも名古屋に集積していた良質な木材を使った事業だったことは容易に想像できる。 

続いて誕生したのが西洋時計。太陽暦の導入(明治6年)にともなってその需要が高まると、輸入時計の販売業を営んでいた林市兵衛は、同20年に名古屋初の近代的な時計工場・時盛社を創業、時計生産を開始した。こうした市兵衛の活動を支えたのは、時計のボディ材に適した木曽ヒノキや、かつて和時計製作にも関わった飾師などの職人だった。

林時計製造所(明治24年、時盛社より改称)による西洋時計(小島健司著『明治の時計』校倉書房より)

また、明治29年、静岡県出身の発明家・豊田佐吉は、自動停止装置や布の巻き取り装置を備え、一人で3~4台の運転ができ、高機の20倍の生産性を誇る国産初の動力織機を開発した。生産性と品質が向上したことに加え、欧州製動力織機の20分の1という価格だったため、県内のみならず全国に普及した。こうした佐吉の活動を物心両面で支えたのは、愛知県下の、優れた腕をもつ鍛冶・鋳物師や大工、高性能で安価な国産織機を渇望していた織布業者だった。

国産初の動力織機「豊田式汽力織機」 (トヨタ産業技術記念館)

あるいは、尾張藩士出身の実業家・奥田政香は、明治29年、日本初の民間鉄道車両会社・日本車輛製造を名古屋に設立した。同社製の鉄道車両のボディには木曽の高級木材・ケヤキが使用され、高い評価を受けたといい、同35年には技を活かして国産初のバスのボディ生産を請け負っている。

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