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からくりとすり合わせの技⑥ 国産技術の確立

戦前、愛知県下にまかれた重工業の種(工作機械、航空機、“車”)は、戦後の復興期(昭和20年代)を経て高度経済成長期(同30年代)に開花する。そして同39年に、地域唯一の銑鉄一貫製鉄所・東海製鉄(現日本製鉄名古屋製鉄所。東海市)が設立されると、これを追い風に同40年代以降さらなる成長をとげていく。

このうち著しい成長をとげたのが“車”である。昭和30年代、モータリゼーション化が進んで国内の自動車産業界は活況を呈したが、未熟な技術を補う意味もあり、外国車のノックダウン生産が主流となっていた。こうした中、トヨタ自動車工業は国産技術による製品開発にこだわった。早くも同30年には純国産技術による量産型乗用車を誕生させて、2年後にはアメリカへの輸出を実現している。自主技術の確立、海外市場への参入という高い志を掲げたことは、後に最終製品(自動車)のみならず、関連分野(素材、部品、生産設備)全般のレベルアップへとつながっていった。

純国産技術の集大成 初代トヨペットクラン(トヨタ自動車WEBサイト「画像・動画DL」より)

また、昭和30年代、日本国有鉄道(現JR)の東海道本線の輸送力ひっ迫などを背景に、大阪~東京間を3時間で結ぶ超特急列車の構想が打ち出され、同社は最高速度200キロを超える世界初の高速鉄道車両・新幹線を開発。国内の車輛メーカー6社がその生産を担ったが、うち1社が日本車輛製造だった。昭和39年、東京オリンピック開催に合わせて東海道新幹線として投入された。

一方、航空分野だが、サンフランシスコ講和条約の公布(昭和27年)にともない、敗戦により禁止されていた日本企業による航空機運航と生産が一部解除される。こうして国産機開発の機運が高まり、同34年に日本航空機製造が設立され、国産初のプロペラ旅客機が誕生。最終組立工程を三菱重工業小牧工場が担った。

飛行点検機として運用中のYS-11FC(航空自衛隊WEBサイト「ギャラリー」より)

あるいは、昭和40年代になると国内の機械産業界では、工場作業者の安全確保・生産性の向上(量産化とコスト低減)・製品品質の安定などといった課題に直面する。そのため、部品加工の分野では工作機械の自動化が進展、大隈鉄工所(現オークマ)によりNC工作機械(同41年)やCNC工作機械(同47年)が誕生した。また、部品加工以外の分野では産業用ロボットの導入が進展、たとえば自動車生産ラインの場合、溶接・塗装・組立・搬送といった工程がロボット作業の対象となった。愛知でも多くの工作機械メーカーや設備メーカーがその実用化に取り組み、諸課題の解決に寄与している。

自動車ボディの自動溶接ラインを再現(トヨタ産業技術記念館)

このように“車”や工作機械が成長した背景には、電子分野、情報通信分野とのすり合わせの進展があったのだが、その影響はほかの分野にもおよび、特徴的な製品が多数誕生した。愛知時計電機のガスメーター(昭和25年)、東海音響電気研究所(現アイホン)のインターホン(同26年)、星崎電機(現ホシザキ)のジュース自動販売機(同32年。国産初)、ブラザー工業の高速ドットプリンター(同46年)・ファクシミリ(同62年)・通信カラオケシステム(平成2年。世界初)・複合機(同7年)などである。

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