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糸を紡ぐ技、編む技⑦ 尾西の絹綿交織と毛織

尾西では、文政年間(江戸後期)に始まった絹綿交織物(尾張縞)が明治10年代に最盛期を迎えた。これに深く関わったのが多加木(一宮市)出身の酒井理一郎である。同17年、理一郎は宮地花池(一宮市)に県内最大の織布工場・花池織工場を創業し、尾西木綿業の発展を主導した。その後、同24年に濃尾大震災が発生して織機が損害をこうむった際には、新式織機・バッタン機の導入を推し進めるなどして早期復旧に貢献している。

また、同地震をきっかけに綿織に代わる新事業として毛織服地の研究が始まったが、その先鞭をつけたのも理一郎で、明治25年頃、輸入毛糸で着尺セル(和服用の布地)を試織した。これに続いたのが津島の片岡春吉で、同31年にモスリン(薄地の布地)を、同34年にはセルを試織した。以後、絹綿交織業者の毛織業転換が進んで、着尺セル用の毛綿交織、毛絹交織、梳毛織が発達していく。そして明治末期には、バッタン機に代わる欧州製の輸入毛織機が導入されるなど、生産体制も整備されていった。

大正時代になると、さらに一段の発展をとげる。当時、国内では洋装(スーツや制服など)が普及しつつあったが、第一次世界大戦(同3~7年)が勃発すると欧州からの毛織服地の輸入が途絶え、その国産化を待望する声が高まった。こうしたニーズを受け、尾西では洋服地用のセル、ラシャ(厚地の布地)類の織布が行われるようになった。国島毛織(嘉永3年《江戸後期》に国島武右衛門が創業した機屋がルーツ)、葛利毛織工業(慶応年間《江戸末期》に葛谷卯一が創業した機屋がルーツ)、三星毛糸(明治20年、岩田志まが開始した綿の艶つけ業がルーツ。現三星グループ)などがこの頃から毛織の技を磨き、今も活動を続ける企業の事例である。

酒井理一郎による毛織物ブランド 「日之出鶴」 (明治27年頃。一宮市博物館)

こうした尾西毛織の発展には、県下で育った「からくりとすり合わせの技」も大きく関わっている。第一次世界大戦にともなう国産毛織物の特需の際に、高額な欧州製に代わる安価な国産の四幅毛織機の開発ニーズが生まれた。これを受けた棚尾(碧南市)の平岩鉄工所(平岩種治郎)は、大正5年、国産初の四幅毛織機を完成させ、後に尾西の機屋にも設置された。

平岩鉄工所が開発した四幅式毛織機(一宮市博物館)


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