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鉄を鍛える技、鋳る技④ 機械産業への参入

長きにわたり活動してきた愛知の鉄を鍛える技、鋳る技だったが、明治時代を迎えると、領主の保護が解かれたことや近代化の波を受けたことで、その多くは伝統的な製品づくりからの撤退を余儀なくされてしまう。その一方で、ときの起業家によって優れた産業資源としての価値を見いだされ、当時台頭し始めた機械産業という新たな活動の場を得た。まだ国内では鋼材が十分に普及しておらず(明治後期頃までは大半を輸入に頼った)、木鉄混製の西洋時計や織機などの可動部品(ギヤやシャフト)製作からのスタートだったが、その後鉄鋼業の発展(鋼材の普及)とともに事業分野を着実に拡大していくこととなる。

その鉄鋼業の動きだが、明治34年に、国内初の銑鉄一貫製鉄を行う官営八幡製鉄所(福岡県)が設立され、以後普通鋼を中心に国産品の普及が進んでいく。さらに大正時代には、第一次世界大戦(同3~7年)の影響で、主流だった欧州製の特殊鋼の需要がひっ迫して国内生産を迫られ、愛知でも同5年、電気炉製鋼による特殊鋼の生産が始まっている(電力会社・名古屋電燈の製鋼部門が分社した電気製鋼所《現大同特殊鋼》による)。こうした一連の流れにのって、愛知の鉄の技(機械各社)は航空機や自動車のエンジン、フレーム、ボディ、全鉄製の織機や工作機械などを手がけるまでになった。

明治36年に豊田佐吉が発明した「豊田式鉄製自動織機」の復元機(トヨタ産業技術記念館)

その後昭和30年代(高度経済成長期)になると、モータリゼーション社会が到来してさらなる成長フェーズへと移る。軽工業から重工業へと地元基幹産業の転換を望んだ中部財界の主導で、東海製鉄(現日本製鉄名古屋製鉄所。東海市)が設立され、同39年より地域唯一の銑鉄一貫製鉄が始まった。ここから供給される鋼材を使った愛知製の機械製品(自動車、工作機械、電気器具など)は、やがて世界的なブランド製品になっていく。

かつて鉄の技の活動拠点だった県内の各地は、現在国内有数の機械産業の集積地になっている。こうした姿とは、経営史の観点による「昭和時代、各地に進出した有力企業が完成させたもの」という見方が一般的である。しかし、本稿の主旨である地域史の観点から読み直すと「数百年間にわたる活動の結果、愛知の鉄の技がつくり出した姿」という解釈へと変わるはず。長い歴史の中にあっては、昭和時代の企業進出も数あるできごとのうちの一つにすぎない。

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