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からくりとすり合わせの技④ 重工業化の進展(祖業の活用)

日清戦争(明治27~28年)や日露戦争(同37~38年)を経て、政府は軍備拡張のために国内産業構造の転換(軽工業から重工業へ)を図り、民間重工業の成長をうながした。これを受けて愛知県下で創業した機械各社は、祖業の経験を活かして、今日の愛知ものづくり産業に直接つながる三つの製品を実用化した。 

一つ目は工作機械。陸軍の要請を受けた大隈麺機商会は、明治37年に旋盤の生産を開始する。以後、陸軍向けの旋盤メーカーとして事業拡大する一方、毛紡績機や漁網機などの民需品にも注力している。また、山崎鉄工所も昭和2年に旋盤やフライス盤の試作を開始、翌年には安井ミシン兄弟商会から旋盤を初受注した。 

二つ目は航空機。愛知時計製造は木工や接着の技を活かしてプロペラ航空機事業に参入、大正9年に水上偵察機の生産を開始する。戦時中は艦上爆撃機や水上攻撃機などの設計、生産を行った(昭和18年、同社から愛知航空機《現愛知機械工業》が分社)。また、昭和9年設立の三菱重工業名古屋航空機製作所(大正9年発足の三菱内燃機製造名古屋工場がルーツ)もプロペラ戦闘機を生産した。同社が昭和15年に開発した艦上戦闘機は中島飛行機(本社は群馬県)でもライセンス生産され、国産戦闘機では最多の生産数を誇った。

三菱重工業が開発した零式艦上戦闘機の復元機(あいち航空ミュージアムWEBサイトより引用)

三つ目は〝車〟。名古屋市長・大岩勇夫は、自動車を中京地区の主要産業とすべく、昭和5年に中京デトロイト化構想を打ち出す。本構想のもと、愛知時計製造(計器と電装品)、日本車輛製造(フレームと車体)、岡本自転車自動車製作所(車輪とブレーキ)、大隈麺機商会改め大隈鉄工所(エンジンと変速機)の各社は自動車の共同開発に着手し、同7年、国産初の乗用車を完成させた。一方、豊田自動織機製作所は独自に自動車開発を進め、昭和10年にトラック、翌年に乗用車の生産を開始する。同12年には、同社の自動車部門が独立してトヨタ自動車工業(現トヨタ自動車)が誕生。戦時下のガソリン統制を受けて木炭自動車なども実用化した。
また、明治26年に国産初の蒸気機関車が官設鉄道の神戸工場で誕生して以降、民間の生産会社も設立され、国産化に向けた動きが本格化する。そして同40年に鉄道が国有化されると、車両形式が標準化され、特別な機関車を除いてすべて国産化されることが決まる。こうした流れを受け、日本車輌製造も大正7年より蒸気機関車の生産を開始した。

トヨタ初の自動車 トヨダG1型トラック(復元車。トヨタ産業技術記念館)
重工業化の流れは鉄道車両にも。写真は日本車輛製造が昭和19年に手がけた蒸気機関車(半田市鉄道資料館)

さらには、政府もみずから国内各地に軍工廠(軍直属の工場)を設立、愛知では古くからのものづくりの地が選ばれた。熱田(名古屋市)の名古屋陸軍造兵廠・熱田製造所(明治37年設立)では、弾薬車、山砲、航空用機関砲などが、同・高蔵製造所(大正6年設立)では、弾丸や薬莢が生産された。また、東洋一の兵器工場と呼ばれ、国内最大規模を誇った豊川海軍工廠(豊川市。昭和14年設立)では、機銃の銃身や銃架、光学機器、高角砲用射撃装置などが生産された。

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