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からくりとすり合わせの技① からくり製品の誕生

ここまでの素材加工の技とは視点を変えるが、機械工学に関わる「からくりとすり合わせの技」も外せない。からくりとは、ぜんまいや歯車などを使って道具を自動的に動かすしかけ(自動装置)のことである。また、すり合わせとは、異なる素材や複数の部品を相互調整しつつ、一つの製品へと仕上げる手法のことで、現在、日本のものづくり産業界の誇る強みの一つとして世界的に認知されている。 

ときは室町後期にまでさかのぼる。上野(春日井市)を拠点とした鋳物師・初代水野太郎左衛門(水野鋳物)は、永禄5年に織田信長から尾張国内の鋳物鋳造に関する判物を拝領して、梵鐘や仏像のほか火縄銃も製作したという。火縄銃とは、平ぜんまいを動力とする自動装置を備え、木と鉄という二種類の素材からなる各種部品を相互調整した機械製品で、これが愛知のからくりとすり合わせの技のルーツと考えてもよかろう。 

そして慶長3年(織豊時代)、徳川家康の所有する自鳴鐘(欧州製の機械式時計)が故障した際に、京都の鍛冶師・初代津田助左衛門はこれを修復しただけでなく、新たに複製品を製作、献上したと伝わる(文献上にみる最古の国産機械式時計)。これをきっかけに助左衛門は家康に召し抱えられて駿府へと移り住む。後に清洲を経て名古屋に移り、尾張藩の御時計師に登用された(そもそも機械式時計が日本に伝わったのは、天文20年《室町後期》のこと。その後キリスト教の宣教師たちが設立した職業学校で構造を学んだ鍛冶師らによって国産化されたとみられる。助左衛門もこうしたうちの一人だったのであろう)。当時、時計とは欧州の最先端技術の塊で、これを手中に収めることは領国の産業力強化へとつながる。助左衛門が家康に召し抱えられたのも、こうした背景によるところが大きい。以後津田家は代々藩の御時計師を世襲して、日本独自の時刻制度(不定時法)のもとに時間を刻む和時計の製作に従事、からくりとすり合わせの技の伝承を図った(津田家は寛政9年《江戸後期》より藩の鍛冶頭も兼任して尾張国内の鍛冶職人を統制。知多の大野鍛冶も和時計製作に関わっている)。

津田助左衛門作と伝わる和時計 (江戸後期。あま歴史資料館)

また、享保15年(江戸中期)に第7代尾張藩主に就任した徳川宗春は、ときの第8代将軍・徳川吉宗の推し進めた質素倹約を旨とする財政改革(享保の改革)に反し、積極財政策、文化奨励策をとった。その結果、神社の祭礼を飾る山車からくりが名古屋を中心に発展をとげていく。これを支えたのが木偶師(からくり人形師)だった。代表格である初代玉屋庄兵衛は、同19年に京都から名古屋に移住して山車からくり製作に従事した。後に庄兵衛の子孫たちは山車からくりのほか、時計の脱進機(歯車の回転速度を一定に保つための装置)を転用した座敷からくり(文字書き人形ほか)も手がけるなど、関連の技の発展に貢献している。

玉屋庄兵衛(第9代)作 茶運び人形

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