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雅明のこと

初めて雅明に会った日、その光景を鮮明に覚えています。雅明は祖母に抱かれて窓の日差しの中で眩しそな目で祖母を見ていました。病院の一室、ベッドで叔母が微笑んでその光景をみていました。私が3歳の頃の記憶です。

「もう少ししたらこの赤ちゃんはうちに来るんだよ。」祖母が言いました。
真っ白な産着を着たこの小さな赤ちゃんが私の家にやってきてくれる。私は嬉しくてたまりませんでした。毎日毎日赤ちゃんが来る日を待っていました。3週間ほど過ぎた朝、雅明は本当に家にやって来ました。

雅明のお母さんが仕事を続けるために私の母が昼間雅明を育てることになったのです。当時父は事業に失敗し母や祖母の内職で生計を立てていました。母はずっと家にいましたので育児を引き受けたのでした。

母はミルクを作ったり、オムツの洗濯をしたり大忙しでした。当時は洗濯機など家になく、盥に洗濯板を置いて、固形石鹸を擦り付けながら手洗いをしていました。母と祖母2人が内職をしている間、雅明と遊ぶのが私の仕事でした。
私が小学生になると授業参観の日は母は雅明を背中におぶって来てくれました。大きな声で「ネーナン!」と私を呼ぶのは恥ずかしくて困りましたが、嬉しくもありました。私が友だちの家に遊びに行く時も雅明は私に付いてきました。私は雅明が可愛くて可愛くてたまりませんでした。

雅明が小学校に入りもう昼間母が面倒を見る事もなくなりました。

雅明が小学校2年になった時です。雅明の鼻血が止まらないんだと雅明のお父さんから電話がきました。
数日後雅明は地元の総合病院で診てもらったのですが病名も分からないまま五反田にある大きな病院を紹介されました。
そしてすぐに入院することになりました。

入院は数ヶ月に長引き退院しましたが、検査に行ったまま入院になる繰り返しの日々になりました。

退院して自宅にいる短い間に雅明は学校に通いました。学校に行って勉強することがとても楽しかったようです。
当時私の自宅では炭で温める炬燵以外に暖房器具がなく、冬になると部屋の中はかなり寒くなりました。
風邪をひくと雅明にとってまた入院になるので、雅明の両親は私の家に雅明を泊めるのを嫌がりましたが、雅明はいう事をききませんでした。
私は中学生になっていました。
試験中夜中まで勉強して布団に潜り込むと、「ネーナン、がんばったね。」隣の布団でとっくに寝ていたはずの雅明が声をかけてくれました。

ほとんど学校に行ってない雅明でしたが、学校のテストの成績は良かったそうです。学校で勉強したいとよく口にしていました。

小学校6年になる春。雅明はまた五反田の病院にいました。小学校から教科書が届いたと嬉しそうにページをめくっていたそうです。
それから数日して急変。
私が学校から帰ると、雅明の危篤を知らせる電話を受け私の母は出かけた後でした。祖母と一緒にすぐ来るようにと母は伝言を残していきました。
私はどうしても行きたくなかったのです。雅明が死んでしまうという事実を受け入れたくなかったのです。

最後まで病院に行くことを拒否し私は家に残りました。

その夜
「何してるんだよ。早く早く、電車が来ちゃうよ。」という言葉を最後に残して雅明は天国に引っ越して行きました。

自宅に戻った雅明は薬の副作用でムーンフェイスになっていましたがいつもの雅明のままでした。
一本の赤いチューリップを両手で握ったまま眠っているようでした。
病院を出る時に看護師さんがチューリップを握らせてくださったそうです。

14歳の私はまだ子どもで、ほんの少ししか人生を知りません。ほんのわずかしか生きてない私が一人の一生を知っている事が切なく不憫でたまりませんでした。

あれから、私は雅明の人生の何倍もの月日を生きてきました。たくさんの人と知り合い、大切な友たちと出会い普通の家庭も築きました。

学校にもほとんどいけず、友も少なく、苦しい検査や闘病だけで一生を終えた雅明。雅明のことを覚えている同級生も少ないだろうと思います。

でも、確かに雅明はいたんだ。
それを伝えたくてこの文章を書いてみました。

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