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五彩緋夏と私

五彩緋夏さんのyoutubeはもう更新されない。メイクをする時には本当に毎日彼女の動画を見ていた私にとって、直視するに耐えない現実だった。

眠れない夜が続いた。疲れ切った頭では、彼女がまだどこかで懸命に暮らしていると自分を騙し切ることもできなくなってしまった。
この文章は、鉄格子みたいな世界で生き抜くための、大きな支えの一つであった五彩緋夏さんへ、感謝を伝えるために残します。
筆者の勝手な解釈を含みますので、辛い方は閲覧を中止いただけますと幸いです。

以後、彼女のことは「ひなちゃん」と呼ばせてほしい。彼女のyoutubeでの活動は約4年間。ハンドルネームが変わったこともあったが、私の中の呼び方はいつも「ひなちゃん」だった。

ひなちゃんは80万人を超える登録者数を誇るyoutuberだ。
メイク動画を中心に、美容や日常を収録した動画をアップしていた。またカラコンやコスメもプロデュース。国内外の多くの人たちが、それぞれ色々な形でひなちゃんと間接的に関わっていただろう。

だから、私はあくまでも、私にとってのひなちゃんの話をしたいと思う。
そして今、それぞれのひなちゃんとの思い出とともに、心の中でひなちゃんと対話している、ひなちゃんのリスナー、ファンの方々からもお話が聞かせてもらえたら嬉しい。

ひなちゃんのことを勝手に書くからには、自分のことも書かねば彼女に失礼だと思うので、私自身のことも書かせていただく。

私は物書きだ。小説や短歌などの創作も行うが、主たる収入源はクライアント向けの取材・執筆。
物書きという夢を追い始めたのが、ちょうどひなちゃんの動画に出会った2019年だった。

その頃、私は中学からの友人を自死で亡くし、精神的にどん底だった。
田舎の実家を出て、東京で慣れない一人暮らしをしながら大学とバイト先の往復を続けていた私を、完膚なきまでに挫いた出来事だった。

私は生きている意味、あるいは死んでいない意味を自問自答し続けた。どうして彼が死んで、私は生きているのか。能力もなければ美人でもない自分が生きている必要はあるのか。四六時中考え通しているうちに拒食状態になり、風呂に入る体力すらなくなった。

ほんの数個の階段で息切れがし、病院に行くこともできなかった。真夏でも長袖長ズボンでなければ寒くて仕方なかった。鏡に映った自分は全身の骨が浮いて餓鬼のようだった。

どうにかしなければ、とぼんやりと考える一方で、このまま静かに死んでしまいたいと強く思っていた。
家から一歩も出ず、SNSも全部消去した私が唯一見ていたのが、youtubeだった。そして、ひなちゃんの初めての動画を見た。

当時の私はもちろん、メイクをする気力も、お金もなかった。
けれども彼女の動画はメイクの技術解説以上に、トークが面白かったのだ。ひなちゃんのメイクテクニックと、豊富な語彙力から生まれる笑えるトークのギャップにわくわくした。
良い意味で想像を裏切られた私は、あの頃から今まで、彼女の動画が上がるのをずっと楽しみにしている。

動画を見始めて少し経ってから分かったのは、彼女は自信満々ではないということだった。けれども同時に、卑屈でもなかった。
お気に入りのメイク道具には何度でも「かわいい〜」と言い、アイシャドウを瞼に乗せて、ふたたび「超かわいい!」ときらきらした瞳で鏡を見る。

いくら自分に自信がなくても、自分が持っているもの、好きなものまで卑下する必要はないのだと教えてくれた。
それから私は自分が不美人で似合わないからと諦めていた、けれどもずっと憧れていたメイク道具を購入するようになった。

ひなちゃんの動画は私の日常の一部になった。ひなちゃんのメイク動画で、地雷盛りライン、涙袋の書き方、束間まつ毛の作り方、眉の太さによる印象の違い等々、教えてもらったことは数え切れない。

自分のすっぴんには相変わらず自信がないけれど、メイクをすると外に出られるようになった。メイクをする日は、外に出たくなった。身支度を整える時には、お守りのようにひなちゃんの動画を流していた。

そしてふたたび外出できるようになった私は、文章という自分が好きなことに出会った。生きていることに不安でも、自分に不釣り合いだと思っても、それを好きだと思う心まで殺す必要はない。好きなものは堂々と好きだと言って良いのだと示してくれたのは、ひなちゃんだ。

2021年、私は学校にもバイトにも復帰していたが、かつて家から出られず授業にも出席できなかった期間があったせいで、大学を留年した。

これまでに貯めていた僅かなバイト代は、もちろん学費で全て消えた。学費の納入を終えた時、残高は600円くらいだったと思う。二、三日は落ち込んだ。けれども状況の割に私は飄々としていた。
金はまた稼げばいい、心身ともに健康でいればなんとかなる、と信じていたからだ。そう思えたのは、私同様に留年しながらも、その場で踏ん張るひなちゃんの存在が大きかった。

ひなちゃんは、視聴者のうちにもファンとリスナーがいる、と言っていた。私はイベントに行ったことがないし、SNSの応援用アカウントも持っていない、リスナーの立場だった。

けれども、私の暮らしの中には確実に、五彩緋夏というクリエイターがいた。
好きなものを好きでいる彼女の生きざまを見て、私も好きなものを大事にするようになると、それらは精神的にきつい時の支えになり、文字通り私を生かしてくれた。もちろん、ひなちゃんの存在自体も、その支えのひとつだった。

ひなちゃんはことあるごとに「動画をあまりアップできなくてごめんね」と言い、「待っていてくれてありがとう」と伝えてくれた。

訃報を聞いた時、もしかして、と思った。
もしかして、私のような聴衆が彼女の負担になっていたのではないかと。私の中にはひなちゃんとの日常、思い出がある。けれども彼女は私のことをまったく知らない。だから私は彼女から支えられこそすれ、決して彼女の生活を支えることはなかったのだと。むしろ、負担になっていたのではないかと、心から申し訳なくなった。

彼女と、彼女の動画と過ごした日々は、五彩緋夏という綺羅星のような、ひとつの才能を消費したにすぎないのだろうか。
彼女への感謝を日々感じながらも、私は知らないうちに彼女をコンテンツとして消費し、摩耗させていたのだろうか。

彼女を思うと様々な思いが溢れる、しかも、とても一方的に。ひなちゃんの動画からもらった勇気も、考えても考え切れない後悔混じりの私の勝手な思いも全部ひっくるめた、大きすぎる花束のようなひなちゃんとの思い出を抱えて、私は今、また立ち尽くしている。

今日もひなちゃんの動画を見ながらメイクをした。
Armujeのアイシャドウを買い足したくて、ロフトを回ったけれど欲しい色は見つからなかった。

ひなちゃんがいたときと世界の見え方は変わったけれど、私の暮らしは、望むと望まないとに関わらず、続いている。ひなちゃんからもらった思い出の花束と共に。
その花束は自分の足元も、目の前も見えないほど大きくて、ふたたび「彼女はいなくなったのに、どうして私は生き残っているのだろう」という、どす黒い問いが頭をもたげる。心の中で闇がふくらむ。そして熱にうかされれように、この文章を書いている。

こんな世界で、私はまた歩いていけるだろうか。もう無理かもしれない。昨晩、耐えられずひとしきり嗚咽を漏らしたあと、ふと思った。もう上手く歩けなくても、前に進めなくてもいいや、と。

ただ、自分が行きたい方向へ、つまづき続けよう。心と反対の方向にだけは流されないように。
つまづき続けて転んだ時には、またきっと、ひなちゃんがくれた花束が私を受け止めてくれるから。彼女がくれた、好きなものを好きというための勇気が、これからもできるところまで私を生かしてくれると思う。

そしてつまづき続けて進んだ先で、鉄格子みたいな世界を抜けた先で、またひなちゃんに会えることを、至極勝手なリスナーである私は願い続ける。

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