幸福ボイル

一度でも『生きることに理由なんてない』とおもってしまったら、
一刻も早く人生の抜け道を探さなければ、その人は"意義"や"理由"といったものに取り憑かれて死んでしまいそうだ。まるで都市伝説の怪異のような。


友人からくる明日の予定についてのグループ連絡を完全に無視している。
返信する気にならない。
8月の夜は決まって心の調子が悪い。

鈴虫やなんやらの声がして、
冷蔵庫や家電の電子音が気になり出して、
自分の咳払いや足音、部屋のすみの電気の当たらない暗さ。
そういうものに、心に別な色を塗られてしまう。

ニュースで、亡くなった母の死体を放置していた人が供述したのが「いつか生き返るかもしれないと思った。」

それについてネットでの声は一部、自分に向けられた言葉のような気がして見るに耐えなかった。こんな自分は恐らくネットとの関わり方を根本から考えるべきだ。


「少し考えればわかる」とか、
「年金が惜しかっただけだろう」とか、

もう書き上げることができないけど、些細な言葉の積み重なりは確実に第三者の心をぶっさした。

ほのかに安心する自分がいた。「やっぱり世界って冷たいんだな」と。
けど「世界は冷たい」と信じこんでいると自分まで、いつか苦しむ人に冷たくしてしまいそうだからそこで切り上げた。
「まぁ、本気で同情するような人はここには書かないだろう」
という事実で絶望に抗体を打った。


昔からよくスクールカウンセラーや話を聞いてくれる大人が話し相手になってくれたことがあったが、
そのなかに一定数「人は幸せになるために生まれてくる」と熱弁する方々がいた。
その当時は「生きていればその意味がわかるかもしれない」と考えていたけれど、
今でも疑問のまま、その疑問は輪郭を持ちディティールを持ち始めた。

ほんとうにそうか?なら理不尽に殺された人は何のために生まれてくる?
親の虐待や家庭内暴力で自殺をした友人は何のために?
進化論や生物学的にはどういう根拠で?
幸せになるために生まれてきて、信号無視したドライバーに一方的に殺された私の母はその説明でどう納得する?俺を助けなければ生きられたのに、彼女は僕を優先して生かして、結果自分は間に合わずに火炎に巻き込まれて死んだ。

所詮は生者の為の空論。
何より、幸せになれなくても生きていていいとさえ思う。
そんなの生きてみないとわかんないんだし。

人は幸せになるために生まれてくる。
生まれる前から目的が決まってる人生なんてそれもそれでくそだな。誰様だよ。神がなんだ。そういうのは対等に話し合いとかで決めろ。


身近な人が死んだとき、やっぱり信じられないものだ。
直近亡くなった友人から今でもLINEが来るんじゃないかとたまに思う。
自分がニュースの向こうの人物と同じ境遇になるとして、
頭でわかっていても、「いつか生き返るかもしれない」と言霊を発したくなるのは想像に難くない。殺そうと思って殺したのなら話は別だが、人物の真意は置いといて、
あのニュースに集まった声を読んでいて、死体をついばむ烏の方がよっぽど高尚だと思ってしまった。
やはり生きるに耐えられない場所だ。


人は罪を背負って生まれてくるから、
悪い出来事は仕方ないという考え方がある。

懺悔する暇もなく突然事故死するほどの罪ってなんだ?当時1歳の子供を残して死に、その子供までも20年苦しみ続けて、今尚も新鮮に悲しまなければならない罪ってなんだ。

母はなぜ死ななきゃならなかったんだ。
今だってこんなにこんなにこんなに帰る場所が欲しくて仕方ないのに。
こんなに広い家に一人で住める大人になったのに。この田舎じゃかなり頑張った方なのに。
誰からも褒められないし、褒められたことに気づけないくらい、広い家も将来も未来もどうでもいい。

なんだったら叱られたかった。あんな頑張り方してても誰も幸せにならないぞって。
ほんとうにそのやり方でお前自身が幸せなのか?
衝動的に頑張ったり実績を上げても、お前が生きてなきゃ意味ないんだぞって。

女性が死んだだけじゃない。
人の唯一の帰る場所がなくなったんだ。
僕は今でも家というものがわからない。
過去を知る人が減っていく。母は最も古い過去を知る人物の一人だった。
それに、家族の素晴らしい一面を信じられない。絆も愛も、正しく伝わらなければゴミより悪い。


「人は幸せになるために生まれてくる」、
聴き手を主人公にした、脇役無視のご都合主義の後味の悪いサクセスストーリーと同じ、
重機についた酸化した油と同じ匂いがする。

宗教が嫌いだ。大抵喋ってる内容から、酸化した油か、安い香水を下品にぶちまけたような匂いがする。

プロテスタント系の幼稚園で育ったけど、
幾度も宗教勧誘を見たけど、
今まで見たどの宗教も俺の母の死に納得できる理由を話したことがない。

生きる理由なんてない。生まれる理由もない。
波や風と同じ。ただ生まれ、ただ思い、悩み、悲しみ、時に喜び、はしゃぎ、感動し、ただ老い、生み、ただ死ぬ。
一連の流れはただの現象であり動作だ。
限りなく高度な機械的連続だ。

そうこうしてる間に、波も風も、人の命も、しれっと終わりに突き当たるものなんだ。

人生に"抜け道"なんてあるのだろうか。
生きる意義も理由も持たずに、ただ、お昼寝みたいな心地よさのまんま、気がついたら日が暮れてるような、そんな理想的な。


冷たい仏壇の線香の匂いより、きれいなスーツや他人の体温より、
慣れ親しんだ母の死臭の方が、よっぽど優しい時が人にはあると思うんだよ。
幸せを見失ったとしても、ぼんやり生きていたって良いと思う。
罪も罰も、裁く為のものじゃない。人を許すためのものだ。
幸せであることは強要されるものじゃない。
たまたま見つけたり、気づいたりする小さなものだとおもう。

死んだ人間は生き返らないし、夢を見てられるほど浮世は寛容じゃない。
いずれ私も死ぬのだから、波や風や虫の姿に少しでも、共に命あり、いつか等しく死す者としての共感と安らぎを感じてありたい。

幸福に蒸しあげられた彼らに、何を言っても焼け石に水といったところだろう。


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